言語化について

先日、自分の記事で何度も言語化が重要だという話をさせていただいた。
言語化をすることで今までなあなあになっていたことや、なんとなく感覚で理解していたことを論理的に考えれるようになるから、という理由だったが、じゃあそもそも言語化ってなんなのかという話である。
それが分からなければ、しようにも出来ないじゃないかというのはもちろん当然で、そのために言語化を言語化する必要があるということだ

ということで雑に書き殴りしていこうと思う。

※なお、今回はゲームに限った話ではない。

言語化の言語化

言語化の言語化についてだが、私が思うことについて述べると、
まず思うのは「抽象的で言葉にしにくい事を表現可能な言語に変換すること」だと思う。自分がどう思っているのか、何を思っているのか、考えているのかを言語に変換することによって、自分以外の第三者に説明できるベクトルまで合わせる能力(というか手段)だ。

これは「何かの行動をするために絶対に必要になること」ではない。
あくまで付加価値であり、あると便利なもの、出来たら便利なものである。
故に自分が行う能動的な行動に対して、必ず何か言語化しなければ生きていけないというシーンは無いと言える。

ただ、この付加価値としての役割がかなり大きく、1を10どころか100にする力を持っている。
そもそもアウトプットという行為が自分の理解度がどれくらいのレベルにあるかの指標が一番分かりやすい行為であり、教えてもらったことを頭の中で理解するのと(無自覚で理解した気になっている事も含めて)それをほかの人間に教えることではレベルが大きく変わる。

例えば学校のテストで、選択式の問題は答えれても記述式の問題は答えられないのと全く同じで、自分が理解できている(気になっている)=人に説明できる(外に出せる)では無いからだ。真に理解しなければ外に出すことは不可能である
つまり、その理論で行くと言語化出来る=真に理解できている
の方程式が正しいということだ。

また、「説明」とは因果関係を語ることであり、言語化をするにあたっての理解度を表すのにまさに的確な言葉だろう。
ただ、説明できている気になっている者も多く存在する。上辺だけの説明など説明ではない。状況は置いといて端的に言うと、5W1Hを、こと細かく言える程度の説明がここで定義している説明である。

追記
「言語化というものが何かについては分かったけど、具体的に言語化するにあたって言葉にしようとしてもできないことが多々あるので、言語化能力の鍛え方や培い方をおしえてほしい」
という相談をいただいた。

まず真っ先に浮かんだのは、自分の語彙力を鍛えるということ。
自分の思考を自分の使っている言語に当てはめるには、ボキャブラリーが無いと成立しないからである。

ではどうやって語彙力を鍛えるかというと、やはり能動的に書籍を読むことが一番だろう。これはゲームで例えるとコーチング(ティーチングではない)と同じである。

最近ではインターネットを開くことで簡単に人の感性や自分とは違った視点や考え方に触れることができる。どちらにせよ一日や二日で培えるものではないので、日ごろから色々な人の感性に触れて育てていくしかないだろう。(私は語彙力が無いので説得力はないかもしれないが)

余談

ここからは話が脱線するが、例えばデザイナー等のクリエイティブな仕事において、言語化はとても強大な力を持っている。自分の表現したいことを言語に表すことで、より人に分かりやすく、より理解を深めた上で内にあるものを外に放出することが可能だからだ。思考を言語化するプロセスで、新たに気づきを得ることもあるだろう。重要な役割を果たしているのは間違いない。
しかし、私は逆にこうとも考えている。音楽や美術、その他クリエイティブな世界で活躍している人たちにとって、言語化出来ないことは必ずあるだろうと。

自分の心の中にある言葉では表現できないことを、言葉以外の方法でアウトプットすることが(文学を除く)芸術なんだと。
私も、日本語を含む、人間が後天的に考え作った「言語」というモノがそこまで優秀だとは思っていない。しかし、「思考停止で言語化出来ない。するものではない」と決めつけるのもまた違うかなと思う。
現代の芸術家は音楽で言ったら歌詞、美術で言うならタイトル(あればだが)だけで、後は著者の思考に関係なく、その意図は観覧者に任せるというのが最近の流行である気がする。
ここら辺のジレンマについて最近考えてはいるものの、個人的にはそれを「仕事」にするならば言語化することは他者の理解を得るためにも必須(というか理解される母数が増えるため出来た方がいい)だと思われるが、芸術至上主義のような作品に関しては特にそのような良し悪しは無いと考えている。



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