議論原稿 テーマ「上からの命令により教育現場は作られる。さてどうすれば、もっと良くなるか。」

これは、以前、何かのディスカッションの機会で話し合ったことをまとめたものである。

(以下)

まず、一つの改革案として、提唱されたのは、生徒全員が部活に入ることを義務づける校則を作るということである。

このモチベーションは、いじめによる自殺防止やいじめ自体をエスカレートしないようにすることである。

いじめというものは、人間が生きている以上決してなくならないと言われている。

ならば、できるだけ発生しないような環境にすれば良い。ここで、いじめの原因はグループの中でそりの合わない人、ならびに、違う人を阻害することである。

それならば、そのグループとは、別の価値観を持つグループに入り、そこで対人関係を築けばいい。

生徒全員が部活に入れば、少なくとも、入ってないときに比べて、いろいろな価値観に触れる機会が増え、そして、自分の強みを見つける事ができ、自分への自身に繋がる可能性がある。

例えば、座学や運動では人一倍劣っていたが、実験や諜報活動になった瞬間、力を発揮すると言うようなケースである。(ちなみに余談ではあるが、そのことで何が自分に足りないのか、気がついて自分の弱点を見直すと言うことにもつながるかもしれない。)

また、グループが変われば、対象をサポートする人々も出てくるかもしれない。以上のことから生徒全員が部活に入ることを義務づける校則を作る必要がある。

ただ、この議論には、反論の余地がある。まず、「強い結束性があるグループ本当に作れるのか」という事である。もしも、ただ、集まっているだけだとしたら、ただの烏合の衆で決して、いい効果があるとは思えない。

次に、「そもそも、人とコミュニケーションを取るのを苦手としている隠者のようなタイプでは、この方法は意味がないのではないか」という反論が挙げられた。

結局のところ、部活は社会性を培う一つの方法であり、社会性が培われることでいじめに遭う確率を減少させることはできるかもしれないが、そのためだけに部活に入らせるのは、意味があるのかは分からないという見解で一致した。

次の改革案の議論に、「総合の時間」は本当に必要かという議論があった。まず、肯定的な意見から述べると、総合の時間は「興味」を見つけることに繋がる可能性があるので、総合の時間はもしも、使えるのであれば、必要であるということである。

その一方否定的な意見も挙げられた。そもそも、「自由に調べてよい」といわれても、前提となるような知識がなければ、何の興味も沸かないし、調べようがない、そのため、まず、歴史、地理、政治経済、倫理、化学、物理、生物、地学、数学のような教科を先に勉強する必要があると言う意見である結局のところ、総合の時間については、調べるのが先か、学ぶのが先か、それは人それぞれであり、調べるのが先というタイプには効果的なので何かを習得する選択肢の一つとして、残しておく必要はあるが、必要以上の時間を費やしてまで行なう必要はないという見解で一致した。

また、効率よく総合の時間を行なう上で、適切に導くことのできる教員が必要であるという意見が出た。知識がなく、調査技術に乏しい状況で、調べ学習を実りある物にするにはリードが必要である。つまり、うまく、調査技術を伝授できる教員が必要であるという意見である。

(以上)

結局、部活動を批判しているダボは、部活動による恩恵を考えていないのだろう。

運動部以外にも文化部もあるわけだし。

その点から目をそらしていて、部活動を反対している連中は果たして何を考えているのだろうか?

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