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磔の蝶

ただ恥ずかしなれば。
己が己であることが恥ずかしい。

現代詩人というものも、あるいは音楽も、デバイスや電子機器を通して作られるものになったのかもしれない。文明と人の感性とが交差する。大したものは書けない。期待はあまりしない。それでも熱意はかけるつもりでいる。あるいは趣味でいる。補うには、それら趣味を安定させるだけのものがあるだろうか。他のものが安定していれば、自然と。しかし話が逸れたので本題に入る。朝目覚めたときから、呪いを噛みしめるように、己が己であることが辛い。ただの感想文にならぬよう、高貴なる文章を意識する。といっても、そんなもの目指すものではないことはわかっている。ネガティブなものへの反応速度が速いのか、あるいは思考の歪みがあるのか、「そんな顔をさせたいのではない」と思うし、「わたしの顔を見て悲しませたくない」「悲しみたくない」と思う。そりゃ対人関係が不得手なのはしょうがないと思う。代わりに得意なことで尊敬されたら嬉しいが、相手に/自分にほっとしてほしいという思いもある。苦手な対人関係のことをやって、本当に心が脆いというか感性のアンテナが受信し続けるので、人間と相対していればいるほど、自信をなくしてしまっているのだ。内省しているから、だろうか。気にするでないと言われたが、我は気にすることで感性を生かそうと思っている。

そしてほんとうに楽しいことの話。自分の心の守り方の話。ああ、守護霊よ…。どうかやめてくれ、我が脳内を襲うのは。おこがましいかもしれないが、守ってくれ。激しい苦痛から。最初から読み直そうと思えば、それはもう流れの終わりなのだ。激しい苦痛を用するなら、そこに悦びを見いだすのが詩人の役目だ。役目って言葉キライだけど。極度に固定観念をキラウ私にとって、己をずっと一つが場所にとどめつけるここ(病の部位)は、まるで標本にされた剥製や蝶のように、苦しくてたまらない。もはや苦しみすら感じないはずなのかもしれないが。我が肉体には、針にさされた部分がある。ずっとそこを通してもがき続け、動けないでいる。これがどれほどの苦しみと悦楽を見いだしたか。いや、違うのだ。本来、それ自体は主になんの痛みも伴わない。かろうじて違和感が残る程度で、他はなんとでもない。しかし、苦しいのは脳なのだ。悦楽を生み出しているのも、創作を生み出しているのもまた、脳なのだ。すべて自我が、あるいは無意識が創り出していること。暇だから、こんなのを書いているだけだ。暇だから、苦境に喜びと悦楽を見出してるだけだ。そういう素朴さでありたい。一つところに留まるのが苦手な人間にとって、あるいは、その痛みがゆえに一つところに留まれなくなってしまった人間にとって、この世の愉悦とはなんだろうか。

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