像に宿る神聖性は人々の願いから来るものなのだろう

Tomokiです.拙いながらも銀細工を初めたことは以前話した.彫金といいつつ,模様を彫ることではなく,まず銀の角柱を焼き鈍しながら叩いて引き延ばしたり,指輪状に丸くしたりしている.結局焼き鈍しの頻度が少なかったのか,亀裂が入ってしまって折れてしまい,やり直すために完全に溶かして今は銀合金の塊に戻ってしまった.やっぱり実際に作ってみないとわからないことは多い.そうやって試行錯誤する中で,工学としてものづくりを学んできた自分が敢えてアクセサリー作りをすることにちょっとした意味を見出してきたので今日はそんな話.

かたちが違うだけで付加価値が変わる

ずっと工学で学んできた自分としては付加価値というものは少し離れた位置にあるものだと思う.機能性が同じならばそれらは同じ価値と見做すことの方が多い.極論を言ってしまえば,同じ材質で指に嵌められるのならば指輪もナットも大して大きな差はないはずだ.

そして真面目に考えてみると,意外とそれが暴論や極論でもない気がする.大手ブランドメーカーの低価格な指輪はきっと手作りはしていないか,手作り工程を出来る限り抑えているはずだ.大半の工程はおそらく加工機械や鋳造型とプレス機なんかで量産していると思う.そうやって限界費用を抑えて量産する近代生産方式だ.その点で言えばナットと指輪は型に多少の複雑性がある違いくらいで製造工程に大した変わりはない気がする.

しかし,実際にそこには異なる価値が存在する.指輪にはネジを留める機能性がない.ただ,指に嵌めることしかできない.それだけで価値が発生するのだから,おそらく工学者には「違う世界の話」として片付けてしまうことだろう.僕にとって銀細工は,そういった別々の世界を行き来する試みだ.銀細工を始めようとして作り方を調べていくうちに,本当に工業生産品と同じ作り方をしていることを知った.当たり前のようで,世界を隔てていたらわからなかった真実だ.同じように土などで型を作って,そこに溶かした銀と銅の合金を流し込んで鋳造するわけだ.場合によっては圧力も加えるかもしれない.ほとんど同じ工程で,同じ作り方で作っただけのこと.それでもそこに価値が生まれるわけだ.

現代のように合理化された世界の考え方に浸っていると,その銀細工を手作りしようとするなんてとても非効率的で非合理的に思える.それは工学部をずっと辿ってきた自分が一番よく知っている.それでも,その非効率的で非合理な瞬間が美しいということなんだと気づいた.それは単なる願いかもしれない.そこに想いを注ぐ人々の美しくあって欲しいという祈りなんかもしれない.仮に単なる幻想への憧憬だったとしても,その想いだけは本物だ.だからこそ,像に宿る付加価値というのは人々の願いや想いの具現化と言える気がする.

像に想いを込める彫刻

きっと僕たちがそういったアクセサリーや飾り物を美しいと思ったり,心惹かれるのは,それを創り出そうとした職人の想いや願いや祈りを感じ取れるからなんじゃないだろうか.そうでなければナットと指輪にそれほどの価格差が生じようがない.それが感じ取りたいという願いだったとしても,感じ取ってほしいという祈りだったとしても,そこに大きな差はない.一部であってもそこには通じ合っている人々がいて,通じ合っている人々の連なりがあるはずだ.それは紛れもない真実で,紛れもない本物と言えるはずだ.

だから,彫刻は何かに自分の想いや思想,願いや祈りを刻み付ける行為なのだと思う.僕が心惹かれる理由もそこにあるのかもしれない.見た者全てがそれを感じ取ってくれるわけではない.それは職人やアーティストのいつまでもなくならない悩み事だと思うし,時には単なる資産としての表面的な代物として取って扱われてしまうこともある.それが必ずしも悪だとは思わないし,無くすべき文化だとも思わない.

それはきっと単なる言葉や声では失われてしまうからだ.想いは簡単には伝わらない.届けたい場所へ行くまでに潰えてしまうことも多い.だから,せめてその想いが長く存在できるよう物に込めることが彫刻なのだろうと思う.それは長い年月を経て未だ見ぬ人たちと対話することができる魔法の道具なんだ.

社会彫刻といえる生き方をしよう

そうやって考えていくと,きっとそれが僕たちの生きる意味なような気もしてくる.成した結果や成果も大事だが,それだけに囚われるのも長い人生の中ではとてももったいない気がする.そうやって思えると,今自分が感じる些細な想いや,こだわりさえ愛おしくなってくる気がする.たった一人の過ごした一生なんて多くの人たちにとっては取るに足らないことに過ぎない.しかし,時を超えてそれが誰かの心の支えになったりするものだ.

願いや祈りなんて,合理性の中では簡単に一蹴されてしまいそうな儚いものに過ぎないのかもしれない.それでも捨てずに抱え続けた想いや,絶えない祈りは,必ずどこかで社会を築く一つの要素となっているはずだ.合理性だけでは世界は出来ない.科学や合理だけでは人々を動かすには足らない.それを僕は奇跡と呼んでいる.

僕は科学も好きだ.論理的な思考に耽ることも好きだ.一方で日々多くの奇跡を目の当たりにしたいとも思っている.合理性だけではないこの世界を愛している.世界が愛で満ちた奇跡の連続で出来上がる世界を願っている.それが僕の想いだ.そんな想いを刻み付ける彫刻を,僕はこれからも絶えず行っていくのだと思う.

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