さつき

あなたはだれ?どこから来たの?

さつき

あなたはだれ?どこから来たの?

最近の記事

精神は管理できるのか

精神という機械精神はプログラムのようなもので、問題なく働いている時は目を向けることがないが、ひとたび不具合が生じれば、施術台に上げられる。その精神の持ち主自身が、自らの精神の仕組みを理解しているとは限らない。仕組みが知れない機械を使えてしまうように。幻聴が聞こえ、憂鬱が去らない。何か異常を来しているのは分かるが、自分ではコントロールできない。どうしようもなくなって、医者を訪ねる。医者と患者の間には知識のギャップがある。患者にとっては不透明な心の動きを、治療する側は心得ている。

    • 閉じる

      窓が結露している。そのせいで、雪の積もった校庭がぼんやりして見える。厳しい寒さが嘘のような、教室の暖かさ。頭がぼーっとするほどの、間の抜けた空気。ふと、陽が差し込む。雲間から鋭く走り、私たちの目に一撃を加えようとする、まばゆい光。即座に使命を感じ、ほうきを置いて私はカーテンを引きに行く。しゃーっと、僅かな力によって、カーテンは、その襞を伸ばされる。黄色い大布は、私たちに外の景色を隠した。子どもたちは、外から隔離されたのだけど、誰もそのことに気づかない。この閉じられた、小さな世

      • 落ちる

        あらゆるものは落ちる。高さがあるのなら、落下する。あらゆる速さで落ちる。落ち葉のように、もしくは墜落する飛行機のように落ちる。上から下に。空から地面に。テーブルから床に。そう、右から左に動くことは落ちることではない。必ず、上から下に、落ちる。すごく機械的な運動だ。だから、「落ちる」という言葉は、人を落ち着かせることができる。眠りに落ちる。恋に落ちる。どこか深いところに、惹き寄せられる。上から下に。あまりに単純すぎる、落ちるということは。堕ちるときもある。これ以上堕ちれないとい

        • 撮られる

          生きているだけでいいのだろうか。ドキュメンタリー映画の中の人物が、意味もなく手をこすりあわせ、視線を移動させる。なんてことない会話を交わす。ホームムービーに映るような、ありきたりな幸せ。カメラは、人間の目より見えすぎるのだと誰かが言った。映像越しに見る人々の生活は、少し白けて見える。それは、見えすぎているからか、見せられているからか。カメラ越しに生きている人間を通して、私を見る。私もその液晶の向こう側に簡単に移行する。一瞬にして、私は映像になる。映像になった私と、その子の生活

        精神は管理できるのか

          世界からいなくなって、デカルト的な精神へ

           小さい頃から、たまにしていた遊びがある。自分が生まれなかった世界を想像するという遊び。 まず、私が母のお腹にいたであろう時期から始める。お母さんが生活している様子を想像する。お母さんのお腹に、私以外の赤ちゃんが、いるかもしれないし、いないかもしれない。 月日が過ぎて、もしかしたら妹や弟が生まれるかもしれない。でも、そこに私はいない。 私の友達が通う小学校の生活も想像する。みんなは放課後に集まって遊ぶだろう。でも、そこに私はいない。 その世界をできるだけ具体的に、鮮明に

          世界からいなくなって、デカルト的な精神へ

          黄色い花

          あれ、黄色い花、あの子が好きだった花だ。どうして海の近くに咲いているんだろう。眩しい日差しに透ける葉っぱ越しに除く、君の横顔が好きだった。柔らかくて、いい匂いのする髪の毛。触りたくても、見えない何かが邪魔をした。覚えているんだけど、 ああ、確か、君はよく絵を描いていた。地面にも描いていた。僕も一度、腕に小さな動物を描かれた。耳のぴんと立った犬。飼っている犬は耳が垂れているけど、本当はこういう耳の犬がほしかったんだ、って悲しそうな顔をしてた。思い出したんだけど、 そう、僕は

          黄色い花

          あなたと私は違うから。

          「3歳で九九できたんだよね、教えてもらったわけじゃないんだけど」と付き合って一ヶ月くらいのとき、ドトールで彼氏がそう言った。 わたしは皆と一緒に小学校で覚えた。彼の話は続く。決しておごった感じはない。 「漢字覚えるのが好きで、小学校のときに多分漢検一級くらいの漢字を覚えてた。あと、旧字体も覚えてた。授業で黒板に旧字体書いたら怒られたんだよね」 私は学校で教えられた以上の漢字は覚えなかったし、旧字体なんて今も知らない。 「そうなんだ」とあまり驚かないふりをした。今まで散

          あなたと私は違うから。

          私を語るのか、語らないのか

          noteを始めたきっかけの一つに「自分がどんな人間か知りたい」という思いがあった。自分が考えていることを言葉にすることで、自分を自分の中から見るだけじゃなくて、自分を、客観的に見える他の人と共有できる媒体に落とし込むことができるのではないか、と考えた。 客観的に自分を理解したかどうかは別として、1つ変わったのだとしたら、風通しの良さかもしれない。自分がこう思う、ということを共有することのハードルが低くなった。 そもそも、自己主張が強いタイプではなかった。大学入って少しする

          私を語るのか、語らないのか

          空っぽな概念

          きらきらした言葉、存在、美、愛、真実etc... こういう言葉の輝きはどこから来るのか。 数々の哲学者が「存在」ということにまともに太刀打ちできなかった。とてつもない謎がそこに眠っているかのように思われていた。 アリストテレスがものについて、述語を繰って何かを述べるとき、「それが存在するかどうか」ということは、他のどんな述語にも並べられない特別なカテゴリーだと考えた。 そのときから「存在」ということが西洋人の頭に住み着き始めた。そのあたりにあるもの、神、わたしたち人間。

          空っぽな概念

          きっと意識と無意識の間で

          明日の朝にはキウイを入れたヨーグルトを食べよう。そんなことを考えながら、ラジオと部屋の明かりを消した。鬱蒼とした森が視界を占拠するみたいに、眠気が私の身体を覆った。起きているときと眠っているときの間になる。取り留めもなく、言葉、もしくは言葉じゃないもの達が通り過ぎていく。光、音、ある感触、概念、ときに物語。意識の世界に生きているときとは違った、自由な戯れなのであった。それらが自由に踊り尽くした後に、私たちは眠ることができる。もし、この儀式を怠るのなら、わたしたちの記憶は生涯に

          きっと意識と無意識の間で

          自他の境界 ―日本人の心性―

          私は人と比べて、自分と周りとの境界が曖昧だ。映画を観て没入し、現実とフィクションの区別がなくなるような時がある。誰かと話していると、その人に感覚や思考を乗っ取られたように感じる時がある。私には堅固な自分がない。きっと空っぽな場所みたいな精神なんだと思う。 しかし、思うのは、こういった傾向が日本的な精神の奥底にあるのではないか、ということ。決して特殊で、プライベートな問題ではない。 西田幾多郎の主客未分自分と周りが一体化する、つまり境界がなくなるという体験。 西田幾多郎で

          自他の境界 ―日本人の心性―

          映画『SHAME』 あるのは恥、ただそれだけ

          セックス&オナニー依存症のブランドンと、メンヘラ系統の妹シシーの絆(しがらみ?)物語。 主人公演じるマイケル・ファスベンダーの演技が淡々と巧い。彼の心の闇につい惹き込まれてしまう。 この心の闇を表現するためか、それとも意図せずしてか、味気ないテンポと音楽が、彼の空っぽな心を反映するように、この映画を支配している。 すごく好きではないが、いい映画だったから、少し紹介したいと思った。 この映画の秀逸ポイントを何個か。 1, 感情ゼロの境地普通の映画って、どんなジャンルで

          映画『SHAME』 あるのは恥、ただそれだけ

          君と一緒に黙っていたい

          一緒に話していて楽しい人、っていうのはある程度たくさんいる。でも、一緒に黙っていたい人は、どれほどいるのだろう。 黙っていてもいい人も、ある程度たくさんいると思う。沈黙が流れても平気だと、そう思える人。気の置けない仲間、友人、家族、そういった人。 でも、積極的に、この人と沈黙を共にしたい、と思えるようなそんな人は稀だ。 この人と黙っていたい。 沈黙が支配する、止まったような時間を共有したい、という欲望。 この止まった時間の中で、永遠のように思われる時間の中で、ずっと

          君と一緒に黙っていたい

          私の準イマジナリーフレンド

          イマジナリーフレンド、人格を持っていて勝手に話しかけてきて、という存在。 わたしはイマジナリーフレンドがいたことはないが、お人形さんを喋らせるみたいに、頭の中にしかいない架空のキャラクターに喋らせることはある。 それらの存在を準イマジナリーフレンドと呼んでいる。 ちゃんと設定(?)もあって、出自や性格がしっかり決められている。そのキャラクターのラインのスタンプも作ったくらいには、諸々具体性を帯びている。 たまに、恋人と話していて、「〇〇(キャラクターの名前)はこう言っ

          私の準イマジナリーフレンド

          叫んでも叫んでも

          ここには音という概念がまるでないみたいだ。だって、叫んでみたって、誰も見向きもしないから。音がないのか、いやそれとも自分そのものがないのか。自分には何の音も聞こえない。なら、叫べば、他の人には聞こえてるのか、分かるはずだ。そう思って叫んだ。気が狂っているのか。喉が痛くなるほど、叫んだ。でも、その叫び声は自分に届いていないから、本当に叫んでいるのか確証はない。叫んでいるつもりだけれど、でももしかしたら喉を痛いほど震わせているだけで、音は発されていないのかもしれない。 今、世界

          叫んでも叫んでも

          「あの人おしゃれ」という乾いた、しかし大真面目な賛辞

          可愛い女の子を見るとときめく。ああ、今時な感じだな、と思わせるファッションやメイク、ヘアスタイル。なんか、これが可愛いってやつか、とニヤついてしまう。 わたしは、普段それなりにお洒落するのが好き。街に行くと、ずっと人のファッションチェックをしてしまう。 「なるほど、その形のトップスは、上半身細めな人が着るときれいなのね」 「その靴の形、きれいだな。最近のはやりの感じね」 でも、ファッションは芸術作品とかと違って、ルールが、コードがあるから、少し記号チック。その記号がな

          「あの人おしゃれ」という乾いた、しかし大真面目な賛辞