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「あの人おしゃれ」という乾いた、しかし大真面目な賛辞
可愛い女の子を見るとときめく。ああ、今時な感じだな、と思わせるファッションやメイク、ヘアスタイル。なんか、これが可愛いってやつか、とニヤついてしまう。
わたしは、普段それなりにお洒落するのが好き。街に行くと、ずっと人のファッションチェックをしてしまう。
「なるほど、その形のトップスは、上半身細めな人が着るときれいなのね」
「その靴の形、きれいだな。最近のはやりの感じね」
でも、ファッションは芸術作品とかと違って、ルールが、コードがあるから、少し記号チック。その記号がなぜか移り変わっていくから、面白い。その移り変わる記号を素早く察知できる人が、いわゆる“おしゃれ”な人。
自分の身なりで、人は自己呈示する。わたしはこういうタイプよ、と。
イケイケかっこいい系のなかでも、これがイケてるみたいなのはずっと移ろう。可愛いふんわり系の中でも、これが可愛いっていうのも移ろう。相対性の中に溺れた衣服たちや顔。
だから、これが今、絶対的に可愛いとかおしゃれだとか、そう思っている人がいると、少し笑ってしまう。
常に王道的なところからちょっとずつ、ちょっとずつ、ずれたところに、“おしゃれ”の居場所がある。
だから、今、これが流行っていて、おしゃれだというのがあっても、それは今のファッションコードの中で、ある特定の位置に、目下相対的にあるに過ぎないのである。
絶対的なものとして、おしゃれ、かわいい、といった価値が存在するのでない。こう言ってよければ、あらゆる価値の中でも、もっとも相対的に定められる価値の一つなのである。
そのコード把持の戦いの中で勝ち抜いた、めちゃくちゃにおしゃれな女の子を見ると、その記号を絶対視していないといいな、と思ってしまう。かわいいな、と心の底から思いながら。
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