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精神は管理できるのか

精神という機械

精神はプログラムのようなもので、問題なく働いている時は目を向けることがないが、ひとたび不具合が生じれば、施術台に上げられる。その精神の持ち主自身が、自らの精神の仕組みを理解しているとは限らない。仕組みが知れない機械を使えてしまうように。幻聴が聞こえ、憂鬱が去らない。何か異常を来しているのは分かるが、自分ではコントロールできない。どうしようもなくなって、医者を訪ねる。医者と患者の間には知識のギャップがある。患者にとっては不透明な心の動きを、治療する側は心得ている。身体も精神も機械であるから、生きるために必ずしもその仕組みの理解を必要としない。経験による対処療法で大体の場合は何とかなるだろう。


精神の管理社会

精神や身体の健康管理を、個人に委ねようとする現代社会においては、精神の健康管理に失敗する人々を責めるような風潮がある。ストレス社会といわれることもあるように、精神の管理スキルが問われる社会になっているため、うまくいかない人が多くいるのは当然だ。だが、人は口々に言う。「考えすぎるあなたが悪い」「どうして、そんなふうに考えるの?」精神に異常をきたすとき、心を客体化して処理することができる人というのは、少数なはずだ。なのに、そういった高度な技術を個人に要請するのは不合理じゃないか。身体の不調を考えてみてほしい。誰かが胃痛に苦しんでいたとする。その人が胃薬を飲むという対処療法で対処できない場合、医者に診てもらうだろう。


精神を扱う素人

(精神病という概念が生まれたのは最近だし、精神を治療対象としてみなすことは自明視すべきじゃないけど)精神を客体化して治療することは高度な技術ということで、実のところ一般人には到底扱えないようなものな代物かもしれない。でも、ストレス社会にも関わらず、個人で個人を管理させる社会の要請のせいで、病める人は自らの心を必要以上に注意を払う必要が出てくる。だが、結局素人の考察になるわけで、怪しい民間療法(自己啓発本や、ネットのデマ的な情報)が横行する。


心は難しい

「だから、精神を病んだ場合は、素人治療をするんじゃなくて、専門家のいる病院に行け」と言いたいわけではない。なぜなら、人によって、原因や重症度、治療に何を求めるか、など状況が異なるからだ。それよりも言いたいのは、心がとても難しい機構なのだということ。うまく心をコントロールできないのは、その人が悪いわけじゃ決してない。だから、焦らないでほしいということ。自己嫌悪に陥ったり、焦って病名や原因を決めつけたりしないでほしい。心は難しい、よく分からなくて仕方がない。


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