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私を語るのか、語らないのか


noteを始めたきっかけの一つに「自分がどんな人間か知りたい」という思いがあった。自分が考えていることを言葉にすることで、自分を自分の中から見るだけじゃなくて、自分を、客観的に見える他の人と共有できる媒体に落とし込むことができるのではないか、と考えた。

客観的に自分を理解したかどうかは別として、1つ変わったのだとしたら、風通しの良さかもしれない。自分がこう思う、ということを共有することのハードルが低くなった。

そもそも、自己主張が強いタイプではなかった。大学入って少しするまで、自分のことを話す意味(意義?)が少しも理解できなかったが、次第に、人と絆を築くにあたって、必要だということで自分のことを話し始めた。
けど、このときは最早話したくないという気持ちの方が強かった。おそらく、自分のことを他の人に話すのはリスクだったんだと思う。自分がこういう人間だ、と示してその人が離れていったら、耐えられなかったんだろう。

まあでも、留学やら就職活動やら、そうnoteやら、またいろいろな活動を通して、自分を晒すリスクに慣れきってしまった。

これは堕落なんだろうか。堕落というのは、世間のニーズに合わせているという世俗性が垣間見えるから。
というのは冗談で(そして半ば本音で)、人と仲良くしやすくなったから良かったと思っている。

けれど、今でもある程度気心が知れてくると、話す気がなくなってくる。何か質問されたら答えるのだけれど。

わたしは話さない。わたしは語らない。わたしは動かないで待っている、植物みたいだ。

昔はこんなやる気のない、人生に絶望してるみたいな自分が嫌だった。

もっとこう、自分を伝えたいとか、他の人に影響を与えたいとか思えよ、若いんだから。とも思った。

でも、これが自分だ。
私はあまり話さない。


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