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骨董の入口 江戸の情緒 古伊万里 蕎麦猪口について 〜手仕事のカタチ〜
こんにちは。
逢季荘です。
日本の手仕事の姿を
過去の形から探っていく
”手仕事のカタチ”
本日は、骨董の入口とも
いわれる古伊万里 蕎麦猪口
について記していきたいと思います。
^古伊万里とは
古伊万里とは江戸時代
旧 肥前国(佐賀県及び壱岐・対馬を除く長崎県)で焼かれた磁器の事を指します。
秀吉の朝鮮出兵により
陶工を日本に呼び寄せた事によって
磁器の原料である陶石が発見され
初めてこの国で磁器を焼成できるように
なりました。
(それ以前まで日本の焼物は陶器や土器しか
ありませんでした。)
より細かく分けると有田焼や波佐見焼
など更に窯元にまで分かれていきますが、
当時は全てこの器達が伊万里港から
出荷されていた為、この一帯で
焼かれた磁器を総称として伊万里焼といい
その中でも、明治以前の江戸時代に
焼かれた伊万里焼を古伊万里と
呼んでいるのです。
蕎麦猪口とは
![](https://assets.st-note.com/img/1656928291091-bb315NNRis.jpg?width=1200)
蕎麦猪口とは、上記画像のような
猪口よりも、一回り〜二回りほど
大きい筒型の器をさします。
江戸時代 18世紀後半にそばの流行により
蕎麦のつけ汁として使われた事から
その名がついたとされ
幕末頃には江戸市中に
4000千店近くの蕎麦屋があったことから
その流行と使用頻度の高さが伺え
当時の浮世絵にもその様子が描かれています。
![](https://assets.st-note.com/img/1656940598437-54LzZTJStJ.jpg)
歌舞伎舞台の夜蕎麦売りのひと場面が
描かれている。手には蕎麦猪口に近い形の高台付きの向付。
蕎麦猪口と呼ばれるこの筒型の器も
時代とともに形が少しずつ
変化していて、最初の生まれはもう少し小さく
会席などの膳の奥側に配膳される向付
として和え物、酢の物などを盛って器として
使われていたとされています。
![](https://assets.st-note.com/img/1656940736213-EY7fJQrOTn.jpg?width=1200)
嘉永年間(1848~1853) 遊女が天ぷらを楊枝で刺して食べようとする姿が描かれている。
奥に縞の蕎麦猪口がみえる
そんな江戸っ子の日常に欠かせなかった
蕎麦猪口ですが、その凡庸性のある形から
色んな見立てで酒器や調味料入れなどにも
使われていたのではないでしょうか。
その染付の伸びやかな筆からは
当時を生きた日本人の
自然や風景に対する捉え方や陶工の作行、
江戸時代の気風や流行などを偲ぶ事ができます。
次回は、そんな時を跨いで
私達をも魅力する
古伊万里 蕎麦猪口の愉しみ方を
ご紹介していきたいと思います。
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