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骨董の入口 江戸の情緒 古伊万里 蕎麦猪口について 〜手仕事のカタチ〜

こんにちは。
逢季荘です。

日本の手仕事の姿を
過去の形から探っていく
”手仕事のカタチ”

本日は、骨董の入口とも
いわれる古伊万里 蕎麦猪口
について記していきたいと思います。

^古伊万里とは

古伊万里とは江戸時代
旧 肥前国(佐賀県及び壱岐・対馬を除く長崎県)で焼かれた磁器の事を指します。

秀吉の朝鮮出兵により
陶工を日本に呼び寄せた事によって
磁器の原料である陶石が発見され
初めてこの国で磁器を焼成できるように
なりました。
(それ以前まで日本の焼物は陶器や土器しか
ありませんでした。)

より細かく分けると有田焼や波佐見焼
など更に窯元にまで分かれていきますが、
当時は全てこの器達が伊万里港から
出荷されていた為、この一帯で
焼かれた磁器を総称として伊万里焼といい

その中でも、明治以前の江戸時代に
焼かれた伊万里焼を古伊万里と
呼んでいるのです。

蕎麦猪口とは

江戸時代の古伊万里蕎麦猪口

蕎麦猪口とは、上記画像のような
猪口よりも、一回り〜二回りほど
大きい筒型の器をさします。

江戸時代 18世紀後半にそばの流行により
蕎麦のつけ汁として使われた事から
その名がついたとされ

幕末頃には江戸市中に
4000千店近くの蕎麦屋があったことから
その流行と使用頻度の高さが伺え
当時の浮世絵にもその様子が描かれています。

『歌川国貞 當穐八幡祭』より  
歌舞伎舞台の夜蕎麦売りのひと場面が
描かれている。手には蕎麦猪口に近い形の高台付きの向付。

蕎麦猪口と呼ばれるこの筒型の器も
時代とともに形が少しずつ
変化していて、最初の生まれはもう少し小さく
会席などの膳の奥側に配膳される向付
として和え物、酢の物などを盛って器として
使われていたとされています。

明治の絵師『月岡芳年』による『風俗三十二相』
嘉永年間(1848~1853) 遊女が天ぷらを楊枝で刺して食べようとする姿が描かれている。
奥に縞の蕎麦猪口がみえる

そんな江戸っ子の日常に欠かせなかった
蕎麦猪口ですが、その凡庸性のある形から
色んな見立てで酒器や調味料入れなどにも
使われていたのではないでしょうか。

その染付の伸びやかな筆からは
当時を生きた日本人の
自然や風景に対する捉え方や陶工の作行、
江戸時代の気風や流行などを偲ぶ事ができます。

次回は、そんな時を跨いで
私達をも魅力する
古伊万里 蕎麦猪口の愉しみ方を
ご紹介していきたいと思います。

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