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@aiiroのこと 5

 思うに人の感覚とは食べ物と色彩に似ている。自分の持っている感覚が絶対ではない。食べ物を美味しいと思うか、同じ色を見て赤と答える人もいれば緋色とかローズレッドとか紅とかって答えると思う。色見本があれば、ある程度の一致は図れると思うのだが。

 そんなことはみんな知っている。色も味もみんなにとって違う。ほぼみんな、食べ物に好き嫌いがある。くにょくにょする触感を理由にキノコを嫌いな人にキノコ好きはそれがいいのに。と言うだろう。

 でも、感覚の話になると途端に無頓着になるのは何故だろう。
 味覚、色覚が感覚なのは勿論わかっているのだが、そういうことを今は言っているのではないことは分かってもらいたい。

 各個人が大事に持っている感覚、これは好きだ。これは嫌いだ。苦手だ。そんなことを思うときには時折、論理的な思考が伴わないときがある。感覚的(生理的)に無理っだたり、無性に好き。自分が依存していることを意識して脱却を図りながらも成せないものもある。
 そういう感覚はきっと誰しも持っているし、持っていてほしいと思う。それでも尚、他人の感覚を尊重はしない。ことが多い。

 というのも、ついこの前のことである。人の前に出たくなかったり、そういうことが得意じゃなかったり、やらなきゃの時はやっても、普段はやりたくないって感じのことを言ったら、それを言った相手から、あーだこーだ言われた。どうやら説得したかったらしい。その中で、恥ずかしいのかな。って言われた。ちゃいますねん。恥ずかしくはないんですよ。恥ずかしがり屋は、こんな所でぬけぬけとこんなことがりましたー。なんて言わないのかもしれない。少なくとも、自分が恥ずかしがり屋なら、自分がいるという証拠を躍起になって探して片っ端から消していくだろう。だから、新たにこんなものを書き始める訳がない。せめて日記で終わる。
 単純に自分のリズムを乱されるのが嫌なの。言葉にするとこれが最もいい近似だと思う。一人でやれば楽である。他人のことなんて基本気にしないで行動できる。自分がしたいときだけ周りと関わればいい。あと、責任とかも分かりやすくていいと思う。
 だからそういう意味でnoteは自分に合っているのかもしれない。

 あと、その人の体験のことを話されて、説得めいたことをされた。それから、そういうのも全部勉強だからって言ってた。何やらうまくまとめられた気になっていらしたらしく、少ししたり顔が垣間見えた。
 いずれにせよ、それは貴方のこと。自分は自分で貴方は貴方で私は私で俺は俺。
 でもこういうことにあった時には自分はこの石を言わない。それは自分の感覚を押し売ることになる。自らわざわざ成り下がってらるような親切な奴では残念ながらないので。

 まあいい。何やらそこでほざいてな。って目で見ている。

 とりあえず、他人に妄言(盲言)するときは相手のことを知ってからにしよう。そして決して知ったフリになってはいけない。





文句ばかりすみません。忘れてくれていいです。

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