知は救いうるか by 喜舎場愛月 | 哲学ブログ・思想的探求の記録

ひなたぼっこができればそれでいい。重度のチョコレート中毒者。 陽の当たるカフェでブラッ…

知は救いうるか by 喜舎場愛月 | 哲学ブログ・思想的探求の記録

ひなたぼっこができればそれでいい。重度のチョコレート中毒者。 陽の当たるカフェでブラックコーヒーを片手に、あるいは週末のジャズバーにてジャックダニエルの原液を片手に哲学について議論をする瞬間があれば人生満足するタイプ。喜舎場愛月は本名です。

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『知は救いうるか』 目次

 私達は概念から具現化された事象でしかないからこそ、私達のたどる旅路は限りなく自由であり、信念や目的は人の数だけあり、美しさの定義は各々の歩みの結晶であるし、恐怖に打ち勝ち深い探求へと向かう姿は可愛らしいのであろう。 知が救わずとも はじめに 哲学 感情とは I エゴは消失ではなく拡大させることで幸福獲得に貢献する〜自己への執着が軽減することに伴い自尊心等の保持が困難に感じられる場合の思考レベルでの対処法について〜 エゴは消失ではなく拡大させることで幸福獲得に貢献する

    • エゴは消失ではなく拡大させることで幸福獲得に貢献する III 〜学問の目的は排他性ではなく包括性を身につけることである〜

      提起 皆様もこんな言葉を耳にしたことはあるだろう。 『これは感覚的なことだから言葉にするのは難しい』 私はかねてよりこの言い回しに違和感を覚えてきた。 どうして感覚というものを表現する時に、言葉がその手段になり得ないのか。 感覚と言葉というものは水と油のような、決して混ざり得ない存在なのだろうか。 私には感覚も言葉も一人の人間が己の中に持っているもので、共存しているものだと思う。 共存しうるものだと思いう。 言葉によって感覚は揺さぶられたり、感覚を言葉で表現することは

      • エゴは消失ではなく拡大させることで幸福獲得に貢献する II 〜拡大を経た自己認識から提供される客観性を元に、日々を演出する自由と責任感を獲得する〜

        はじめに: 拡大して終わりではない エゴを自分の肉体に閉じ込めることなく、見える世界全体に見出すことで、自分がいる環境をまるごと受け入れて肯定することができ、安定した幸福に繋がる、という仮説を同タイトル記事の第一弾で展開した。 自分らしさを、肉体的な自分以外にも見い出すという考え方の提案だ。 自分の目の前に広がる環境もエゴの選択により組み立てられたものであると考えれば、”自分”という範囲は、自分が見える限りの世界に拡大するという認識の変化である。 その結果、自分の生

        • エゴは消失ではなく拡大させることで幸福獲得に貢献する〜自己への執着が軽減することに伴い自尊心等の保持が困難に感じられる場合の思考レベルでの対処法について〜

          はじめに 少し前のことである。 とある人間関係において私が求めるレベルでの相互理解が到底困難なものに思えたので、私はその関わりに終止符を打とうとしていた。 彼は取り乱し『君はエゴイスティックだ』という言葉を私に向けて発した。 それは自分の欲求解消や個人的な計画が今後は続けられなくなる憂鬱さや恐怖からくる『彼』なりの解決策、もしくは単なる反応であったのだろう。 そういった事情の上で私を引き留めようという行為こそエゴイスティックであり、その時は『彼』のうち大部分が『エゴ』と

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          はじめに

          私が飲んでいるのはコーヒー[Coffee]ではない、コーヒーの味がつけられた水[Coffee Flavored Water]なのではないかとよく思うのである。 人は何をコーヒーと呼んでいるのか。 コーヒーの定義とは。 コーヒーとはなんだろう、水とはなんだろう。 コーヒーと水は何が違うのだろう。 飲むとはどういうことだろう。 飲んだら体の中で何が起こるのだろう。 数秒後にはそれは私の一部になってしまい、コーヒーではなくなるのか。 なぜ飲まなければならないのだろう。 私はそ

          何でもできる人

          はじめに 先日、ふと知人がこう言った。 「なぜ何でもできる人は何でもできるのだろう」 私の答えの軸は以下の3つだ。 I. 「できる or できない」ではなく「やる or やらない」 II. 脳は一つだから III. 学問や技術に境目などない 一つずつお話していきたい。 I. 「できる or できない」ではなく「やる or やらない」 これは、自分に制限を作らないということだ。 まだやり始めていないんだから、何も分からないのである。 あれこれ考えず、やってしまえ

          情報と踊るより 音楽と踊ろう

          私のこの肉体を乱舞させうるのは、洗練された音楽のみだ。 私が何か調べ物をしていてもっともらしい情報に出会って、それが”科学的根拠”や”エビデンス”という言葉で裏付けされていた時、それをも疑う姿勢を失ってしまっては、最初にあったはずの「本当にそうなのか」という気持ちを踏みにじることになる。 まず、科学において人類が思考し常に発展する以上、絶対に正しい情報というものは存在しない。 例えば、その昔地球は動いていないとみんなが信じていたが、それは事実ではなかった。 また、地球を

          私がコピー品なら、芸術とは何だろうか I

          私は何をもって芸術と感じるのだろう。 人は一体何のために芸術作品を作るのだろう。 芸術からメッセージを抜いたら何が残るのだろう。 ここで私がいうメッセージとは、特定の誰かに伝えたい想いがあるということではなくて、もちろんそういった場合もあるのだが、私がここで表したかったのはその意味ではなく、その芸術作品がどうしてそのような結果になったのかという理由や過程が、その人の中にしっかりとあるか、ということである。 芸術が創造されたり発信されたりする時に、それを形作った軸が他者では

          感情とは I

          思い返してみると、私は過去のほぼすべての瞬間において、次の瞬間に自分が幸福になるか不幸になるかを選ぶことができたように思える。 極端に言えば、自分がとても不幸だと思っていた時期でさえ、その不幸の理由は私自信が絶えず「よし、次の瞬間も不幸でいよう」と選択し続けていたことにあるように思えるのだ。 私は今、次の瞬間に自分を幸福な人間だと思うか、不幸な人間だと思うか、自由に選択することができると思う。 私はどうありたいのか、あるいは自分をどのような人間だと思うかにおいて自由に選択

          美しさは年齢に依存しない

          美しさを語る時に、そこに年齢は要らないと思うのである。 私は頻繁に、日常生活の中で時間という概念から解き放たれたい欲求にかられる。 それが邪魔だと感じるからだ。 何かをする時、時間という概念が邪魔だなと感じることよくある。 『もうXX才だからこうしよう』 『XX才なのにこうあるのはおかしい/すごい』 『これをするには時間がかかるからやめておこう』 時間というものはおそらく、現在多くの人が考えている形とは少し違っていて、そこには私にとって意味はない。 少なくとも時間のサイ