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アメリカのディズニーで働きたい夢 〜スマイルのはなし その1~

はじめに


去年から始めたTwitterやClubhouseを通し、若い学生のお友達から夢についてお話をすることが何度かありました。
色々と相談に乗っている中で、私の体験記を読んでみたいという声もありました。
人生やっと時間もでき、余裕が出てきた頃ですが、
「私もう良いお歳だからさ、私の場合の夢を叶えるまでの軌跡談も何かヒントになるかも!」と思い、体験談エッセイとしてシェアすることにしました。
とっても長いけど、よかったらお楽しみください♪ 


広島での経験


いきなりですが、少し自慢のように聞こえるかもしれませんが、私はずっと音楽と絵の才能がありました。
絵画や詩のコンクールで1位を受賞することも、自身が作り歌った曲でYAMAHAのTEEN'S MUSIC FESTIVALで準優勝したこともあります。
学校の先生方も友達やその道の大人の方々も誰もが私のことを褒めてくれたし応援してくれました。
ただ一つ残念だったことは、私は家族から応援されませんでした。とても古い考えの家だったのです。
私の家族は、私に4年制の大学にいきOLというものを目指すように強いていました。私はとにかく芸術系以外の科目は不得意だったので高校時代はどんどん落ちこぼれていき、英語の夏休みの宿題を冬休みに出したり補習の常連客とやばい子でしたよ。そして裕福でもなかったのでお小遣いもなく、高校生の時から一人で行動するのに慣れていました。ただ自分のことを決断できるパワーはその時はなく提案されているレールをひたすら進むことしかできませんでした。

なので、卒業後、希望していない大学(英文科)にうっかり入学してしまったものの、毎日放課後は休みなくアルバイトでお金を稼ぎ、自分で好きなものを買えるという喜びで心から日々楽しかったのを覚えています。
そんな中、私は本当に本当にラッキーで、
広島で当時とても人気だったアメリカ人オーナー、ケビンのレストランで働いていました。
そこは旧広島市民球場から徒歩圏だったので、外国の野球選手がゲーム後に遊びに来たり、スライリーが7回終わったらスライリーのまま遊びに来たり、広島中の外国人の方々がこのレストランで食事をしに来ていました。
私にとっては広島にいながら、外国の空気に常に触れることができる環境が楽しくて楽しくて家のように感じていました。
そして、やって来るお客様もみんな、ここを家のように思ってくれていて、わたしたちレストランで働く仲間を家族のように思って接してくださっていました。
私は…やっぱり大学も合わなかったので…全く勉強をしませんでしたが(女子大だったし…)このレストランで生の英語に触れて生の英語の表現を独学で学んでいきました。

アメリカンレストランで働く私。毎日違う帽子かぶるのが好きでした。

ある時、そのレストランに団体の外国の方々がどわ〜っとやってきたんですね。
それが、なんと「ディズニーオンアイスツアー」の人たち。
かの有名なパンフレット売りのジョーおじちゃんもいたし、スケーターの方や、ショップキャストの方でレストランが彼らで埋め尽くされていました。
ジョーおじちゃんは、いつもカウンターのど真ん中にいました。
私がディズニーオンアイスは何回か行ったことあるってジョーおじちゃんに言ったら、
「もちろん覚えているさ!いつだって僕は君のことを忘れないさ」ってニッコニコ笑顔で答えてくれるのがとっても可愛かった。
オンアイスツアー中は毎日来てくれたので、とても仲良くなれたのです。


ディズニーキャストにどうしたらなれるの?

特にグッズ売り(綿飴とかかき氷とか色々ね)のキャストさんたちのグループと仲良しになりました。
そんな彼らはいつもいつも楽しそうで、私はついつい聞いてみたんです。

「私も将来ディズニーのキャストになりたいな!どうしたらなれるの?」

すると、彼らは一瞬互いに目を見合わせて、同時にこう言いました。

「Keep your smile, Aiko!」

そして、
「笑顔でいれば、誰でもディズニーキャストになれるよ」
と私に教えてくれました。

意外な答えが返ってきてとっても不思議に思ったんです。
だって、こんな体格の良い大きな大の大人たちがみんなそろって、
「ディズニーで仕事をするためには、笑顔さえあれば働ける!」
と自信を持ってビッグスマイルで答えているんですもん。
目から鱗でまくりましたもん。

その時、
「私も必ずアメリカのディズニーで働こう。」
とすぐに心の底から感じて、決めました。

広島に住んでいるので、東京のディズニーランドには4歳くらいの時に一回行ったきりで、ディズニー映画は大好きでしたが、キャストというものが何なのか全然知りませんでした。
当時は地方住まいだと、東京は外国と同じ感覚で思っていました。
飛行機に乗る=外国 だったんよ、当時。田舎だから。

だからこそ、
東京ディズニーで働くくらいなら、アメリカのディズニーで働く。
だって飛行機に乗る飛行時間が違うだけじゃん!と単純に思っていた部分はありました。
海外へのハードルを低く考えれたのは田舎住まいだったからだと思います。広島感謝ね。

オンアイスでも働いてみました。かき氷めっちゃ作ったよ。


どうしたらアメリカのディズニーで働ける?


すぐ調べることにしました。
当時大学4年生だった私はまだMixiや魔法のiらんどという媒体が主流だったのでとにかくいろんな人の日記やブログを検索して、アメリカのディズニーのことを調べまくりました。
大学4年生なので本来であれば日本は就活に向けてのラストスパートって感じの時期です。
木村美絵さんのディズニーのお仕事体験の本を何度も読みました。
木村さんはアメリカに留学しフロリダのディズニーワールドのディズニー大学で学んだことを著書にされていました。
私は裕福な家でもなく、自分のアルバイトだけでは留学にはいけないし既に大学4年生だったこともあり、アメリカの大学に留学しながらディズニー大学を体験することは私の場合はきっとできないだろうと察しました。
でも、どうしても行きたいんです。

そして他の方のブログを読んでいるうちに、
ディズニーワールドのEPCOTには、万国博覧会のようにいろんな国のパビリオンがあって、その中の日本館を三越が運営していることを知りました。
これだ!
これしかない。

ディズニーの大学に言ったら、笑顔があれば仕事ができるというおじさんたちのあの気持ちの謎を知ることができるに違いない。
単純にそう思ってました。
また調べているうちに、米国三越を卒業してディズニークルーズで働くNamiちゃんの日記を読みました。
ディズニークルーズというのがあるんだ!
ジャングルクルーズじゃなくて大きいタイタニックみたいな船があるんだ!(←これ広島の友達によく言われます)

これに乗るしかない!
これに乗るために、三越で働くしかない!

普段から家族にも相談できない環境にいたし、大学にも友達がいなかったので私はレストラン中のお客さんに、「私はアメリカのディズニーで働くの!」と言いまくりました。
見つけたことが嬉しくって嬉しくって。
すると、お客さんがみんな、
「英語の履歴書を見てあげる!面接の練習をしてあげる!働いたら遊びに行くね!」
と言ってくれました。
リクルーターの仕事をしている人に履歴書のアドバイスももらえたし、時には「好きなものを仕事にすると傷つくことがあるかもしれない」と心配してくれる人もいて、
一緒に私の将来をレストランの人たちが考えてくれたのは心強かったです。

みんなが協力してくれると、さらに夢が叶う気がして来るものです。

調べると米国三越キャスト(契約社員)の応募は既に始まっていました。
急がなくてはいけない!


米国三越で働こう。

毎日アルバイトから帰って家で隠れて履歴書を書いていました。絶対に反対されてしまう家族にはバレないようにしていました。

履歴書は手書きw

当時、米国三越は履歴書のほか、「私の資質-だから私を選んでください」というエッセイを提出書類としていました。

夢中で、自分らしいものを作ろう!と、これまでのアートスキルをここで活かそうと思いカラフルにしました。

Essey1ページ目
Essey 2ページ目

レストランの同期のNobuくん(RevolucionというBarを広島で今やってます)がこのカラフルなエッセイを見て、「アイコちゃん、このエッセイは受かるよ!本当に感動した!」と言ってくれて飛び上がって喜んだのも覚えてる。Nobuくん本当にいつも励ましてくれてありがとう。

面接のために、レストランの外国のお客さんたちが仕事後に面接官役を手伝ってもらいました。

またディズニーワールドのことを知るためにヤフオクで全てのディズニーワールドガイドを買い、ワールドの地図が頭に全部入るくらいずっと知らないディズニーのことを勉強しました。
また、米国三越は、日本館を運営しているので、日本館の建物(厳島神社の鳥居、桂離宮、姫路城、紫宸殿など)を勉強し、和食のレストランでも追加のアルバイトをして、日本食レストランで働く知識を蓄えました。

面接の前の日に東京ディズニーランドに行き、ミートミッキーで魔法使いミッキーに会い、願掛けもしてもらって大泣きしたりw。

面接では、Keep your smile! とディズニーオンアイスの人たちが教えてくれたように、ディズニーと三越の面接官の前で、笑顔をずっとずっと保ちました。
でもそれは自然に出てくるスマイルでした。
だって、夢見ていた面接が実現できたんだもの。
本当に好きでやりたいことであれば、自然に笑顔になれるんですよね。


そして!!!

念願の米国三越行きへの切符を手にしたのです。

内定通知

【259名から選ばれました44名であることを誇りとして、これからのご活躍を期待しております】
と書かれていました。
しかも、私はラッキーにも、米国三越が25年ぶりにリニューアルオープンするレストランでオープニングチームで働くことができるという条件もいただけました。

米国三越で働ける!
そして卒業したら、念願のアメリカのディズニーの雇用でディズニークルーズで働くんだ!

その切符を手にした私はとってもとっても輝いていたと思います。
ついに家族にその内定書をみせ、自分がどんな努力をして、困難な面接に合格したのかということを説明し、説得しました。
やっと自由を得たのです。

内定をもらったものの渡米までは1年待たなくてはいけなかったため、
メインの仕事で公立中学校の臨時採用教員枠(時給)で英語の授業を教師として仕事し、夜はこのレストランで働き、仕事のない夏休みからは、広島のディズニーストアソレイユ店で働き、土日はディズニーストアと和食レストランを掛け持ちし、木曜のみOFFという毎日を過ごしました。

この時私は、当時ディズニーチャンネルの社長(前任のディズニーストアの社長で、最近までアジアのディズニーをまとめてらした方)だった、ポールさんと会います。
ポールさんは毎日欠かさず腹筋を100回しているそうです。それは継続することがパワーになり、夢を叶えると信じているからだと言っていました。
「if you can dream it, you can do it.」を教えてくださったのはポールさんです。
そして彼もまた、Keep your smileが大事であることを教えてくださいました。
私も夢を信じて、笑顔で夢を叶えるんだ!

私は本当に広島で周りに恵まれ幸せに夢を見ることができていたんだなと振り返り思います。皆さんに本当に深く感謝しています。

さて、その2はいよいよ渡米!というお話です。

終わりに

よく英語ができないから海外のディズニーで働けるわけがないという声を聞きます。
でも.…今回ご紹介した私の事例のように、あんな高校生で英語の夏休みの宿題を冬休みに出して補講の常連だった私が、お金なくて留学したことがなくても英語で履歴書を書き、英語で面接を受け、高倍率の中合格することができた、そんな例もあるということで、少しでも勇気になればいいなと思ったりしています。
今すぐできないことは弊害では決してないと思います。
それよりも信念を持って夢を持ち、その夢を応援してくれるパワーとなる仲間にどれだけたくさん出会えるかがキーとなることを信じてほしいです。

興味が湧くと、それは夢になります。
夢を叶えるために今はスキルはないかもしれないけれども、夢を持っているとどんなに辛くてもずっと叶えることに向かっていくことはできます。

私の好きなWaltの言葉、
if you can dream it, you can do it.
夢は見ることができれば、叶えることもできる。

本当にその通りです。

しかし、夢を見続けることは、時には高いハードルもあります。真っ直ぐスムーズにいくものではないのが人生でもありますよね…。

次回、こちらのエピソードの  その2  では少し夢が壊れる話があるかもしれません。
でもいかにして私が夢を見続けることができたかを覚悟を決めてシェアしようと思っています。

お楽しみに!

その2へ続く


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