わたしは他人を差別したり見下したりするわたしを許します
昨日の夜、うとうとしながら気がついた。
わたしはずっと前から、他人を差別したり下に見たりする自分を許したかったんだなって。
6年前にコスタリカのコーヒー農園に行ったことは、わたしの人生の中でもとても大切な経験だったのだけれど、コーヒー農園に行って、しかも生産者の人たちと一緒に働いてみたいと思った理由の一つは「対等な意識になりたかったから」。
大学生のときに国際協力の分野に興味を持ち始めて、ボランティアしたり学びに行ったりバイトしたり、とにかくめちゃくちゃ行動して没頭した。そのときに出会って一番関心を持っていたのが“フェアトレード”。いろんな体験を重ねていくうちに、ただ金銭的や物質的に支援するだけでは発展途上国と言われる国の人たちは豊かになっていかないらしいということを知っていった。それと同時に、日本で売っている安い商品を作っているのは途上国の人たちで、その賃金はあまりにも安く、不当に働かされているかもしれないということも知った。意図せぬうちに自分が加害者になっていたんだと思い、衝撃を受けた。いろんな活動を通して、自分は良いことをしている“良い人間”だったはずなのに、ただ生きているだけで加害者になっているような気持ちになって罪悪感が湧いた。
それをまるごと解決してくれるのがわたしにとってはフェアトレードだった。支援する側される側として関わるのではなく、ビジネスパートナーとして対等に関わることによって、途上国の人は自立していく力を持ち、こちら側もちゃんと利益を得る。そういう持続可能的な仕組み。“対等”だと思った。対等ということにとても魅力を感じた。
でも。わたしの当時の感覚は対等とはほど遠かったと思う。フェアトレードの商品を買いながらも、生産者の人たちに対して「買ってあげている」という感覚を確かに持っていた。仕組みは対等なはずなのに、自分の中には生産者の人たちを下に見る感覚を確かに感じていた。
その感覚を、わたしは無くしたかった。途上国の人たちを見下すような自分でいたくなかった。そんな感覚はどうすればなくなるのだろう。安易な考えのわたしが思いついたのは「一緒に働いてみること」だった。
生産者の人たちと一緒に働いて、実際に友だちになれたら、この見下すような感覚はなくなるんじゃないだろうか。わたしはそんな仮説を立てた。
いろいろと紆余曲折あり、そんな仮説を立ててから実際に行くのは何年かあとのことなんだけれど、実際その仮説はどうだったかというと…。
間違えていたと思う。コーヒー農園ではその仮説がどうだったか、ということ以上のかけがえのない経験ができたのだけれど、その仮説は成立しなかった。わたしはやっぱりずっと心のどこかで、社会的に弱い立場にいる人や、自分よりもお金を稼いでいないような人を見下している。コーヒー農園で出会った人たちのことも、大好きだったけれど、認めたくもなかったけれど、やっぱり今も見下している気持ちがある。たくさんたくさん助けてもらいながらも、見下しているんだ。本当に最低だけど。
わたしが他人を見下すのは、その人が途上国の人だからでもなく、友だちじゃないからでもない。わたしが他人を見下すことによって安心したいから見下すんだ。なんなら友だちのことも見下しているし、場面場面によってあらゆる人を見下しながら安心したがっているのがわたしだったんだ。
他人を見下すような人間で居たくなかった。他人を見下すような自分を無くしたかった。どうにか、変えたかった。そう思っていろんなことをしてきた。でも本当は違った。
わたしは、他人を見下すような自分を受け入れたかったんだと思う、本当の本当は。差別したり見下すような最低な自分も、ただ許したかったんだと思う。誰かよりも少しでも上にいたい。あの人よりは自分の方がマシだと思いたい。そんな風に、本当の安心とは程遠いようなそんな感覚でも、得られることで弱い自分を一生懸命保とうとしていた。なんて弱いんだろう。あー弱い。弱っちい。そんな弱っちい自分を、本当は本当は、そのまま受け入れたかったんだ。
わたしは他人を差別したり、他人を見下したりするわたしを許します。そんな弱っちいわたしのままでいてみよう。
今までずっと必死に無くそうともがき続けてきたけど、それでも全然無くならなかった感覚が、許そうと決めたら不思議と溶けていくような感じがしている。
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