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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.80 第八章


 空は、薄い青から、だんだん紫に変わっていく。

「そう言えば」
ふと、湿っぽい空気をたち切るように母が言った。

「昔、海岸で今日と同じような紫の空を見たわ。あれは、そう、あんたのアパートをたずねて追い返されたあと」

「そんなこと、あったな」
 少し鼻をすすりながら、カケルは小さく笑った。

「そのとき、私のそばには、背の低い女の子がいて、そう、あんたと同じ演劇サークルだ、と言ってたわ。あんたのアパートまでの道、教えてくれたのよ」

 美晴、だ。
 ほんの少しの動揺とともに、そのころの美晴のすがたを思い浮かべる。

「私、あんたが大学でどんな風? って聞いたら、その子は、あんたのことやさしい、と言ったのよ。ちょっと意外で、でも、そうね、そういうところを隠し持っているわよね、と妙に感心したこと、思い出したわ、今。その子に、あんたに渡しそびれたお土産を預けた気がするけど」
「受け取ったよ、それ」

 中身が何だったのかは、忘れてしまった。ドアにかけられていた袋には、「お母さんからです 美晴」と書かれたメモが入っていた。一体、どこでどうして自分の母と美晴が会ったのか。不思議だったが、問う機会を何となく失って、そのメモはしばらくカケルのポケットに入っていた。そういうことだったのか。


 そのとき、レイコさーん、と呼ぶ声がして、母とカケルは同時に振り向いた。作業着姿の年配の男が、慌ててこちらへ駆けてくる。
「レイコさん、ここにいたの、よかった」

 これが間野さん、か。カケルは、どうも、と言って軽く頭を下げた。小太りで、朗らかな顔をしている。

「フェンスが開いていてさ、車椅子だけぽかーん、と置いてけぼりになってたから、驚いちゃって。まさか、早まったのか、とか、考えちゃって」
「手術も成功したのに、何言ってんのよ」
 咳き込んで話す間野に向かって、母は軽く手を振った。
「あ、こっち、息子。音信不通の」
「はじめまして。草間カケルです。母がお世話になりまして」

 間野は、作業着のズボンからタオルを取り出すと、額の汗をふいた。そして、カケルを見つめてから言った。

「いやぁ、何だ、良かったよ。音信不通の、っていうから、どんな男かと思ったけど」
 そして、二人を見比べて、人の好さそうな笑顔を浮かべた。
「仲も、良さそうだし」
 二人して、え、と顔を見合わせた。


 母が、間野と病室へ戻っても、しばらくカケルは海辺にいた。何となく、そこにひとりでとどまりたかった。紫色に暮れていく空と海に、ひとりで包まれていたかったのだ。

 また、とり残されてしまったな。
 母と間野が消えて行ったあとを見送って、そう思った。
 いつも、そう思っていたんだ。
 お母さんは、自分のそばには、いてくれない。自分だけを、見てくれない。けれど、母もさびしかったのだ。そのさびしさを埋めるために、必死だった。足りない部分を埋めるために、もっと、もっと。

 寄せては返す波を見つめる。つられるように、みぎわまで歩いて行く。波が、カケルの足元を洗う。カケルは、そっと海に、身を乗り出した。全身が、紫に染まってしまう。空と海が溶けてしまいそうな景色の中で、カケルは、たどりついてはいけない、ひとつの心境に至った。

 そうか。おれは、ずっと、さびしかったんだ。
 鼻先は、すうっと冷えて、血の気を失っていくようだった。
 それは、のぞいてはいけない心の底だった。おそらく、青春のころにも、そのすぐ際まで行って、決してのぞく勇気の出なかった心の底。
 一歩、二歩、とカケルは海へ向かった。けれど、波が、大きくその波頭を崩したとき、カケルは我に返った。
 カケルの耳に、何かが届いた。

 〝やさしい、と思います〟

 崩れる波の音に交じって、かつての、少女だったころの美晴の声が聞こえた。カケルは、泡となって引いていく足元の波を見つめた。

 何ということだ。
 別れた妻は、あなたは薄情なのよ、と言った。
 昔の恋人は、あなたは薄情じゃない、と言った。
でもそれよりはるか昔に、自分とは何も始まっていない彼女は、おれのことをやさしい、と言ったのだ。おれの知らないところで。
 波に洗われるみぎわを見つめる。
 昔の彼女が今のおれを、見つめている。無垢な瞳で。

 やさしい、と言ってくれた彼女は、だけどそれからいろいろあって、再会したときには自分のものではない他のだれかのものになっていた。

 何てことを、してしまったんだろう。
 カケルは、北の大地からつないで連れ帰った彼女の手を放してしまった。  帰って来た途端、ごく自然に。行く前と何も変わらぬ素振りで。
 もう、戻れない。そして、取り返すこともできない。

 彼女だったかもしれないのに。


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