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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.18 第三章 雲の章

 日没直後の海は、少し荒れていた。空は、薄い青から紫へと変わり始めていて、風は夜の気配をはらんでいる。夕方と夜の、このあわいの時間が美晴はとても好きだ。
「素敵な景色ねぇ」
 カケルの母は少しはしゃいだように笑った。
 少し歩きませんか、と誘ってみたものの、何を話してよいのか見当がつかず、美晴は彼女と連れ立って海まで来てしまった。海を前にしていれば、たいしておしゃべりも必要なかった。
 彼女は、肩掛けのバッグから煙草を取り出した。火をつけようとするのだが、海風が炎をちらちらと揺らし定まらない。やっとついた火は、紫の風景の中で提灯のように明るく灯った。
 しばらく、二人とも何もしゃべらなかった。
「すっかり嫌われちゃったわね」
 大きくため息のように煙を吐き出して、カケルの母は言った。
「ま、自業自得なんだけど」
 彼女のショールも紫色に染まり、風に細かくふるえている。
「カケル、大学ではどんな風なの?」
 感傷的な空気を断ち切るように、彼女は明るい表情を美晴に向けた。
「あ、えーと。やさしいです、たぶん」
 彼女は下を向いてふふっと笑う。
「たぶん、ね」
「あ〰、たぶんは余分でした」
 彼女は、今度は声を立てて笑った。
「いいのよ、弁解しなくても。たぶん、なのよ。あの子の場合」
 彼女は半分くらいになった煙草を、指に挟んだまま遠くを見た。赤く燃えてゆく先から、灰がこぼれ落ちてゆく。
「たぶん、根はやさしいんだろうけど」
 彼女はうつむいて、ぽつんと言った。
「ちょっとひねくれて育っちゃったかも。十分な愛情を注いであげられなかったから」
 最後の煙を吐きすてると、彼女は煙草をシガーケースの中でもみ消した。そして、美晴に向かって無造作にビニール袋を突き出した。
「これ、あの子に渡しそびれちゃった。あんたから渡しといてくれる?」
 土産屋で買ったと思われるお菓子と緑茶の入った袋を、美晴はしばしぼう然と見つめた。
 気づくと、彼女は竹でできた柵の出口に向かって歩みはじめている。歩みが早いところも、彼に似ている。

 夏休みが始まるとほぼ同時に、梅雨は明けた。みんみんとセミが鳴き始め、木々の影が色濃くアスファルトに落ちている。
 すぐにでも渡そうと思ったのに、タイミングを逃してしまった。美晴は、バイトを終えてから、お土産を持ってカケルのアパートへ急いだ。あれから三日経ってしまった。
 サークルでは二度顔を合わせたが、人前で渡すには、はばかられる気がした。自分がカケルの母に会ったことも説明しなければおかしいし、あのやりとりを思い起こすと、母が訪ねて来たこと自体、みんなに知られたくないかもしれない、と思ったのだ。
 直接、アパートまで渡しに行った方がよいかも、というのが美晴の判断だった。
 明月荘の前まで行くと、二階のカケルの部屋の扉が開いた。ミニスカートで髪の茶色い女の子が出てきた。
「じゃ、ね」
 女の子は、もう一度玄関の中へ一歩踏み込み、見えなくなった。ハグか、キスをしているのだろう。見えなくても、それぐらい予想できた。女の子は、弾むような足取りで、階段を下りて来た。ヒールでカンカン音を鳴らしながら。夏の日差しをあびて、ひまわり色のトップスと真っ白なミニスカートが輝いた。ゆれる髪からも、やわらかそうな腕からも、たった今まで行われていた行為の幸福感があふれ出ていた。
 美晴は、自分が手にしている渋茶色のお土産と、自分が着ているなんの色気もないチェックのシャツとデニムのパンツを見た。
 何だかすごくタイミング悪そう。
 美晴は、今、自分が手にしている物といで立ちを見て、急に気恥ずかしくなった。
 仕方がないので、ドアの所まで行くと、そっとドアノブにお土産の袋をひっかけた。かろうじて肩掛けカバンの中にあったペンで、レシートの裏にメモを残して、袋に入れた。
「お母さんからです。美晴」
 足音をしのばせて、階段を下りると、どっと緊張がとけた。

 焼けつくような日差しの中を、美晴はとぼとぼと歩いた。行くときは色鮮やかに見えた道路沿いの花も、何だか疎ましく感じた。まぶしい景色に、笑われている気さえした。
 何を期待して行ったのだろう。
 美晴は、行くときとまるで違う自分の心境に戸惑った。ありがとう、ちょっと上がっていく? とか? 今からちょうどメシなんだ。一緒にどう? とか? そんな具体的な妄想が今ごろ頭に浮かんできて、困った。

 ああ! 美晴は思わず立ち止まって帽子を深くかぶり直した。
 目深にかぶった麦わらのふちからは、力強い夏の雲が見える。
 来週には、一度北海道へ帰る。こちらとの様々なこととも、しばらくお別れだ。

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   (第三章、終わり。Vol.19、第四章は、カケル)         


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