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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.45 第六章


 切り立った山や岩、その間を埋めるように作られた住宅地の中にあって、その園庭は、ぽっかりと広く、そこだけ空が開けていた。芝の向こうには、白い遊歩道が続き、浅く広い池に水草が丸く漂っている。ここでも、やはり青葉もみじが盛んで、枝たちは細かな葉を風にふるわせている。

「ここにしましょう」

 もみじの木の下に、ちょうど平らな岩がある。美晴は、まるでピクニックにでも来たように、その岩の上にブランケットを広げ、荷を広げ始めた。

「じゃーん。クリームチーズと、ドライフルーツも持ってきたんです」

 隣のテニスコートでは、年輩の男女が球を打ち交わしている。梅雨の晴れ間に響く、のどかな球の音。

「これはね、昨日のトマト煮込みの残り」

 美晴は、チェックのブランケットの上に、次々と丸い保存容器を並べる。

「ほら、今日の試作品です」

 硬くて丸いパンをひとつ、こちらへ差し出した。黙ってそれを受け取る。割れ目から、かすかにこうばしい香りがした。腰を下ろして、ちぎって口へ入れてみる。パリッとした皮の中に、もっちりとやわらかな生地が現れる。硬いけれど、かめばかむほど味が出る。隣でパンをほおばって、美晴が言う。

「うん、おいしい。まぁまぁ成功なのかな」

「店で売れそうじゃん」

 加えて言うと、美晴は肩をすくめた。

「一筋縄じゃ、いかないってことがよく分かりました。酵母ができるのもね、気温や作る環境に、すごく左右されるんですって。声を聞くような気持ちで、って言われました」

 美晴は、そう言いながら、クリームチーズを一片、差し出す。

「声?」

「そう、酵母菌の、声。自分の肌で、気温を感じて、湿度とかも感じて、酵母はどんな状態なのかなー、って、耳を澄ますような。ふつふつと、発酵してきてるのかな、って、感覚を研ぎ澄まして観察することが大事なんですって」

 よくは分からないが、奥深そうだ。けれど、小さな自然のものと対話するような姿勢は、何か彼女に合っている気がする。

「毎日、朝三時起きですって」
「え?」

 聞き返すと、美晴はひざに頭をうずめて、ため息をついた。

「その日の開店にパンを間に合わせるには、そんなに早起きしなきゃいけないみたい。今の私には、ムリだなぁ。ランチに、手作りのパンを添えるのも、夢だったんだけど」

 ため息をついているのに、楽しそうにすら見える。膨らむ夢や理想に追いつけなくて、悩むことすら楽しんでいる。そんな姿だ。

「お前……楽しそうだな」

 今、この瞬間も、その前後に続く仕事も生活も、何か一本の細くも強いつるのようなものがあって、目に見えないぐらいのゆっくりさで、でも確実に巻きつきながら伸びていく、そんなイメージを彼女に抱く。そして、ふと、少し前に再会したマリの言葉が頭をよぎる。

 なんか、自分の居場所があるって感じ。

 うつむいた先のひざの上に、固く握られたマリの拳は、自分の今にどこか納得できずに、でも決められた中で毎日をやり過ごしていく人々すべてのものに思えた。大抵の人が、自由に自分を解き放つことなく、何かの役割を演じて生きている。自分らしい場所で、自分らしく呼吸できている。そんな風に生きている人は、多くはないのだろう。


 
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