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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.90 第九章


 それから、秋が去って、冬が来て、春が来て、また夏が来た。二度目の秋と、そして冬。

 それでもカケルからは何の音沙汰もなかった。
 メールぐらいくれたっていいのに。ずっと前、そうつぶやいていた圭も、すっかり彼のことは話さなくなった。連絡手段の問題ではないことぐらい、分かるのだ。つまりは、連絡できない状態であることが。心の距離として。もしくは、本人がかたくなに決めた決まり事として。

 そのどちらにしても、思いわずらうことを、美晴はやめた。
 今できることを、精一杯、愛をこめて。
 思いがけない人がくれた言葉が、美晴を支えていた。大丈夫だから。あなたは愛を、いっぱい持っているから。その愛を、今は様々な方面に拡散するように、生きよう。庭の木々や草花にシャワーの雨を降らせながら、美晴は空を仰ぐ。シャワーの雨に、小さな虹が光っている。枯らさないように。枯れてしまわないように。自分の中の、柔らかくて、あたたかいもの。

 一度心を塞いだかに見えた圭は、ゆるやかに本来の穏やかさを取り戻し、いつしか手足は伸びて、美晴の背に迫るまでになった。まさに、茎、ね。名前の由来を話してくすっと笑うと、照れかくしなのか、手に丸めたタオルを投げつけてくる。この春、五年生になった圭は、学校でバスケットボールクラブに入った。

 受け止めて、あ、と思う。デジャ・ヴのようにくっきりと、あるシーンが美晴の胸を通り過ぎる。こうして、彼とタオルを投げ合ったのだ。はるか前のことにも思えるし、夢の中の出来事にも思える。楽しかった、三人の時間。振り切るように、えいっとまたタオルを投げ返す。ほどけたタオルを受け止めて、圭が声をあげて笑う。このところ、また少し似てきたな、と思う。

 かつて愛した人の面影と暮らすことの、幸福。愛している人を待つ、ということの幸福。美晴は、自分の中のこの静かな変化に驚いた。
 一人は、その面影を息子に残して去っていった。もう一人は、自分のやるべき事のために、この場を離れた。いくつかの物と、待っていて、という言葉を残して。けれど、それは必ずしも、悲しみだけを残したわけではなかったのだ。
 どんどん成長していく圭を眺めているのは幸せだったし、カケルが置いていった本を手に取るのも、ひそかな楽しみだった。それは、圭には内緒の時間でもあった。圭が、学校へ行って時間がふと空いたとき。離れに行って気になる本を手に取る。恋の詩の部分に、ふせんが貼ってあったりすると、ふふ、と思わず笑ってしまう。なぐりつけたように、無造作に貼られたふせん。
 やっぱり、カケルさんってロマンチックなんだなぁ、と思う。そして、やっぱり、照れ屋なんだな、とも。
 帰ってくる、とか来ないとか、そういう悲しいこだわりは、なるべく持っていたくなかった。空気に溶けるように、彼の存在を感じていたから。
 だから、その存在が、形となってふいに手元に届いたとき、美晴は夢から醒めたようにはっとした。
 春の夕方、それは突然やって来た。
 抱えきれないほどの、淡いピンクのバラの花束。差出人に、「草間カケル」の名前があった。心臓が、とくん、と音を立てた。添えられた封筒をそっと開けると、手紙はなくて、渋谷の映画館のチケットが二枚、入っていた。

 『きみたちがまだ知らないこと』 試写会  招待券

そう、印字されてあった。次の行には、「監督 草間カケル」の文字も。
 目を閉じて、美晴は、胸いっぱいにバラの香りを吸いこんだ。そして、黙って花束を抱きしめた。二枚のチケットも一緒に。


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