見出し画像

【連載小説】「緑にゆれる」Vol.71 第七章


 カフェを出て、見慣れた駅の周辺を通り過ぎ、観光でにぎわう大通りをやり過ごして、また静かな住宅街を歩いた。
 
 ねぇ、連れて行ってやりたい所って、どこ? と聞くと、ひと言、楽園、と言った。おれにとっては、だけど。そう言って、少しだけ自信なさそうに、鼻の頭をかいた。

 道はどんどん細くなって、川を渡ると曲がりくねってきた。緑が、どんどん濃くなっていく。気がつくと、前に、お寺のような門がまえが見えた。入り口に来ると、カケルさんは、お金を払って圭に券を一枚、手渡した。

「楽園への、チケットだ」

 圭は、カケルさんの顔を見上げると、黙ってそれを受け取った。

「一人で、行っておいで」

 たぶん、そう言われるだろう、と思っていた。
 なので、圭は、素直にこくん、とうなずいて、そのまま境内の階段へと進んだ。進んで少ししてから振り返ると、カケルさんは片手をあげて、軽く手を振った。圭も、手を振り返した。

 一瞬、ほんの一瞬だけど、カケルさんにはもう二度と会えないような気がした。そんなわけはないのだけれど、ここから、自分は一人で全く別の世界へ入っていくんだ、というちょっとした気構えが、そんな寂しさを引き起こしたのかもしれない。

 前を向くと、視界に入るものはすべて、緑だった。

ホーホケキョ、ケキョケキョケキョケキョケキョ

突然、耳にするどい声が響いた。ウグイス? 春の鳥のイメージだけれど、この緑の中では、季節を越えてなお、主役なのだ。その声が辺りにこだまして響き渡っている。圭は、こんなに大きなウグイスの声を初めて聞いた。

 ケキョケキョケキョケキョケキョケキョー!

 大音量なのに、姿は見えない。辺りを見回しても、目に入ってくるのは、緑、緑、緑。自分の服も体も、緑に染まってしまいそうだ。どこからか、かすかな水の音がする。道のわきには、傘みたいに大きな葉っぱが茂っている。空気の中にも、水があるみたい。圭は、思わず胸いっぱいに深呼吸する。

 ケキョケキョケキョ、ホーホケキョ‼

 一人道行く圭を案内する声にも、聞こえてきた。お寺の境内へたどり着くと、待っていたのは、ぼうぼうの草でできた迷路だった。曲がりくねった迷路の小路を、奥へ奥へと進んだ。

 ホーホケキョ!

 圭は、足を止めた。そこには不思議な空間が広がっていた。池があって、目の前に穴がほられた巨大な岩がある。

 ギコギコギコギコギコ。

 ものすごく大きな声でびっくりした。何? これは? カエル? きっと、ものすごく大きなヒキガエルだろう。けれど、そのカエルを想像するより先に、圭の心をとらえたものがあった。
 透明な、無数のひらめき。
 それは。

数えきれないくらいの、トンボ、トンボ、トンボだった。

「うわぁ」

 思わず、声に出していた。池のすぐそばまでかけよった。大きいのも、細いのも、いろんな種類のトンボが交じり合って飛んでいる。ひらめくように、刃のように。ひらり、きらり。無数の刃が、空中で光りきらめいていた。池からは、むっとした夏の空気が立ちのぼっている。水のつぶ、そして光のつぶが、むわぁっと上昇気流に乗っている。圭は、トンボの群れに包まれていた。そのただ中にあって、自分も小さくなって、一緒に宙をひらめいた。逆さになって、輪になって、踊るように、空を切った。ほら、宙返り! 体を正面に戻すと、ひときわ大きなトンボと、目が合った。あ。息が止まるような鼓動を覚えた。その目は青く、深かった。無邪気に飛び回っていた圭の心は、ぴたっと止まった。

 王様。トンボの、王様だ。
 それは、恐れにも似た不思議な気持ちだった。

――もっとその目の中を見てみたい。

 そう思ったとたん、トンボはぱっとひるがえって、飛んでいってしまった。
 ギコギコギコギコ。
 耳に届く、無遠慮なヒキガエルの声。

 はっとした。
 ここは、虫の王国なんだ。圭は、改めて、ひらめいているトンボの群れを見た。

 ここは、トンボや生き物たちの王国。たくさんのトンボや虫たちの国で、カエルはそこの番人なのだ。そして、さっきの――圭は、ひときわ大きなトンボの深遠な目を思い出した。さっきの大きなトンボが、ここの王様なのだ。

 うわぁ……!

 圭はのけぞるほどに、天をあおいだ。

 こんな世界が、あったんだ――!

 興奮して、叫び出したい気分だった。圭は、すべりそうな石段を、一気に駆け下りた。早く、この発見を、だれかに言いたい。そうだ。カケルさん、お母さん‼

 息せき切って下りてきた圭を見て、カケルさんは、もたれかかっていた門から身を離した。

「ど、どうした?」

 圭は、息をはぁはぁさせて、それから、カケルさんに駆け寄って言った。

「すごい、すごいよ。虫の王国! 楽園は、虫の王国だったんだ‼」

 カケルさんは、ぽかん、としている。

「虫の王国で、ぼく、トンボと一緒に空を飛んだよ。それから、トンボの王様に会ったぁ、会っちゃったー!」

 カケルさんは、咳払いするように手を口元に当てて、ははっ、と笑った。それから、それは、よかったなぁ! と言った。


Vol.70 第七章 へもどる)    (Vol.72 第七章 へとつづく)

読んでくださって、本当にありがとうございます! 感想など、お気軽にコメントください(^^)お待ちしています!