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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.38(最終回) 第六章 風花の章

 ふいに、強く両肩をつかまれて、美晴は心臓がとび出るほど驚いた。その途端、がんばって目尻にとどまっていた涙の粒が転がり落ちた。
「行こう。みんなも待ってる。このまま、すぐ電車に乗って、空港まで行くんだ」
「だって、でも」
「いいか、お前の人生は。お前の人生の主役は、お前だ。舞台の外でも、舞台を降りても。お母さんが不幸でも、それはお前のせいじゃない。お前には関係のないことだ」
 真剣なまなざしが、真っすぐ自分をとらえて離さない。澄んだ空気の中で、彼の黒い瞳はくっきりと自分を見つめていた。
「関係ないことはなくても。それにしばられる必要は、ない」
 低くて深いところから出てくる彼の声は、ひと言ずつ耳に刻まれた。
「……先輩」
 涙のすじが、凍ってほほで縞を描いていくのを感じる。
「だれも、そんなこと、言ってくれなかった。だれも」
 美晴の肩に置かれた手は、自然に腕をたどり、美晴の手を握った。その手を引っ張って、彼は言った。
「行こう」
「このまま、一緒に行ってしまっても」 
 振り向いたカケルが、黙ってうなずいた。
 それから先は、まるで夢の中のようにあいまいだ。彼は、ずっと自分の手を握っていたような気もするし、そうでない気もする。ただ、飛行機を待つ空港のロビーで、深くソファに沈み込みながら、どちらからともなくずっと体を寄せ合っていたことだけは、何となく肌が覚えている。彼はあくび交じりに、確かこう言った。
「まさか、こんな形で夢がかなうとはな」
 夢。その夢とは、何だっただろう。眠りそうな意識の中で美晴はぼんやり考える。その答えを見つける前に、カケルの頭がほんの少し自分の側に倒れてきた。すぅすぅと彼の寝息が聞こえる。心地よい重みに、美晴もそっと彼の肩に頭をもたせかけた。だだっ広い空のかなたに、またひとつ飛行機が飛び立っていく。そのまま、意識はつかの間の眠りの中へたゆたって行った。

   ***

 無防備な格好のまま北へ向かって、カケルは心底後悔した。
 旭川から美晴を連れ戻してすぐ、激しい寒気に襲われて、カケルは速攻風邪を引いた。幸い寝込んだのは一日だけで、熱はすぐ下がったが、しばらく鼻がつまってすっきりしなかった。
寝込んだその日、アパートのインターホンが鳴った。開けてみたら、美晴が立っていた。
「これ」
 彼女はそう短く言うと、手提げの紙袋を差し出した。中には耐熱皿にラップがかけられた、シェファーズ・パイが入っていた。サンキュ、と言ってから、お前のせいで本番前にえらい目に合った、と、憎まれ口をたたいたが、内心、ほっこりしたのは言うまでもない。前に熱を出したとき美晴が作ってくれた料理のことを、ぼんやりと思い出していたからだ。
「早く良くなって下さいね」
 彼女はにっこり笑って手提げを渡すと、そのままアパートの階段を下りていった。
 彼女との距離は、つかず離れず。あのとき、しっかり手をつないで連れて来たはずなのに、二人の距離は、持ち場に戻ったとたん、自然と元通りに収まった。
 でも、時々ふと考える。
 あのまま、二人でもっと北へ行っていたら。もしくは、全く違う飛行機に乗って全然別の場所へ行っていたら。何かが生まれていただろうか。
 そこまで考えて、ふっと自分を笑いたくなる。
物を書く人間の、悪い癖だな。そういうことは、どうでもいいことなのかもしれない。今、この時点での二人にとっては。

 本番前の緊張感が高まってきて、ステージ脇が騒がしい。衣装をつけた美晴が、他の役者よりちょっと遅れて姿を現した。
「わぁ、美晴ちゃん、きれい」
 由莉奈が小さく拍手する。
「少し、髪もスタイリングしました」
 つきそってきた佳乃が満足そうな笑みを浮かべる。美晴は、緊張からか照れからか、少し顔を赤らめてみんなと離れたところにたたずんでいる。
「じゃあ、こっち」
 カケルは、他の役者にも声をかけ、美晴に手招きした。
 本番前には、全員で円陣を組む。緊張と、期待と、高揚と。それを分かち合う仲間たち。カケルは、この瞬間が一番好きだ。全員で肩を組んで額をつき合わせ、真ん中で手を重ねる。この舞台が、最高のものになるように。自分たちにとっても、観客にとっても。
 全員そろって声を出すと、輪はとかれてそれぞれの持ち場に散っていく。
 一番手でステージに上がる美晴は、左側のそでの一番前にたたずんだ。後ろに控えたカケルは、そっと美晴の肩に両手を置いた。そして、ささやくように言葉をかけた。
「思い切って行け」
 美晴が、ゆっくり振り向く。二人の視線は、ゆるぎなく結ばれた。二人で到達した地平へ。観る者すべてを連れていく覚悟で。輝きをともした美晴の瞳が、強くうなずく。そして彼女は、スポットライトで白く輝くステージに出ていった。軽やかに、まるで舞うように。
 きっと、彼女もまた、おれを軽々と越えていくんだろう。まぶしいような寂しいような不思議な気持ちが胸の中を通りすぎる。
 その後ろ姿を心に焼きつけて、カケルもまた、舞台に一歩を踏み出していった。

(了)

(原稿用紙換算枚数 二百五十枚)

(Vol.37へ戻る)   (おまけのような、あとがき。伝えたかったこと。)



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