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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.37 第六章 風花の章

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 足がどうしても家へ向かわなくて、こんな所まで来てしまった。
「お弁当屋さんまで行ってくるね」
 そう、家の者たちに言い置いて、美晴は、病院帰りのその足で玄関を後にした。玄関にはちょうど祖母の茶飲み友達が来ていた。事情はすべて知っていると見えて、あら美晴ちゃん偉いわね、やっぱり昔から家族思いのいい子だったものね、と言われた。心療内科の先生は物腰やわらかな初老の男性で、母のつきそいで行った美晴を安心させた。ひと区切りついた。そう思う反面、これからが深みにはまっていくのだ、ともう一人の自分の声が聞こえた気がした。
 すべての風景が止まって見えた。美晴は、音も風もない凪の中にひとり取り残されたような気持ちになった。それに抵抗したいというのではない。ただ、こうして、また静かな世界に戻っていくのだ。そう思った。そんなときだ。動きが止まってしまった弁当屋の前で、美晴の目の前に、ひとひらの雪がどこからともなく舞って来たのだ。

 風花。空はどこまでも青く、雪は降っていない。風が、山からひとひらの雪を運んできたのだ。風花がやってきた方角を見る。向こうに、深緑の木々がこんもりと見える。あの丘の向こう。そうだ。子どものころよく登っていた、あの小高い丘。ここではないどこかへの思いをはせていた場所。

 何かを思うより先に、足がそちらを向いていた。心のおもむくままに。
 バッグの中で携帯が震えている。きっと、カケルだろう。彼には、何日か前に伝えた。帰れない、ということを。いいのだ。自分で決めたのだ。
 母の具合が良くなるのを見届けてから、あちらへ帰る。それまで少し休学をする、と。昨日、家族の前でそう言ったとき、弟の表情からは当惑が、父や祖母の顔からは驚きと同時に、安どの表情が読みとれた。それで大丈夫なのか、という父に、うん、友達にノート取っておいてもらうように頼まなくちゃ、と軽く言いおいて居間を出た。演劇サークルのことは家族に言わなかった。いいのだ、これで。そう心の中でつぶやきながら、ひたすら丘の上を目指した。晴れているとはいえ、気温は氷点下だ。ほほが、ぴりぴりする。自分の息さえも、たちまち冷たい氷のつぶになって顔の周りにまといつく。

 歩けば、忘れる。心からそう願った。歩けば、きっと忘れていく。違う自分になれそうだったことも、彼との濃密な時間も。
 たどり着いたのは、昔と変わらぬ丘のてっぺんだった。雪で真っ白な丘陵が、なだらかに美しい線を描き、目の内におさまることなくどこまでも続いている。

 美しい。自分の一番好きな風景だ。夏であっても、冬であっても。息を切らせて美晴は辺りをぐるりと見渡す。意外とすっきりした気分だ。けれど、まだ何かぬぐい切れない気持ちがわだかまっていたのだろう。美晴は、おなかの底から思い切り叫んだ。
「わあ――――――――っ」
 広い平原の中、透き通った声をかすかな風がさらっていった。あの森の入り口まで行ってみよう。小さい時、弟たちと遊んだあの森へ。そう一歩を踏み出そうとした時、どこかで聞いた声がした。
「おい」
 息せき切ったその声は、まさか。ゆっくり振り向くと、そこにカケルが立っていた。急いで後を追って来たのか、呼吸がかなり乱れていた。
「そんな、ところでひとりで発声してんじゃねーよ」
 夢に包まれたような気持ちで、美晴はそこを動けないまま何回かまばたきをした。カケルは消えない。忘れようと思った彼が、今そこに立っているのだ。
 けれどカケルが一歩踏み出したと同時に、美晴は背を向けて駆け出していた。雪の中なのでものすごく足をあげないと進めない。
「待て、逃げるな」
 カケルに腕をつかまれて、二人とも雪の中へ倒れこんだ。すぐに立ち上がったカケルを、美晴は雪の中に座り込んだまま見つめた。
「寒すぎるんだよ。早く。帰るぞ」
 カケルは、その場で小さく足踏みをしている。
「役は、マリさんに、って言ったじゃないですか」
 美晴はゆっくり起き上がって、雪を払った。
「お前、それ本気で言ってんのか」
 カケルの小刻みの動きが、ぴたりと止まった。
「本当のこと、言えよ。最初からやりたかったです、って。代役から、恋愛関係のもつれから、自分に役がまわってきてラッキーでした、って、言えよ」
「そんなこと……」
「思ってない?」
 追及されて、美晴は本気で泣きたくなった。せっかく忘れようとしていたのに、なぜ、かき乱しに来たのだろう。彼は。
「でも」
 半べそになって、美晴は言葉をつないだ。
「家族がそれを許しません」
「何?」
「私が自由になることを。家族が許しません。私がいてあげないと。母が……」
 そこまで言うと、もう何も言えなかった。目に張りめぐらされた涙が凍らないことを祈った。そして、その涙がこぼれ落ちないことを、強く願った。ここでとどまるのだ。

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