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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.36 第五章

 平日、夜というには少し早い時間のバーは、ほとんど客がいなかった。久しぶり、と言ったあと、里伽はぎこちなく、にっこり笑った。二人は、バーの窓際のカウンター席に横並びに座った。

「どうして、連絡くれたの」

 彼女の落ち着いた様子から、新しい居場所を手に入れかけているという余裕を感じた。

「きっとお前からは連絡しづらいだろうと思って。そのくせ、きちんとしないと気持ち悪いと思うだろう、お前の性格だと」

 カケルの言葉に、里伽はちょっぴり肩をすくめて、笑った。そして、うん、とうなずいた。

 バーテンダーが、二人にカクテルを持ってきた。紙のコースターがすっと差し出され、カケルの前にはジントニックが、里伽の前にはミモザが置かれた。
 新しい幸せに向かう彼女と、職を失い道すら見えていない自分。もう、自分たちが会うことは、二度とないだろう。直接、言葉を交わすのは、これが最後かもしれない。謝るのも、ひっかかっていたことを口にするのも。
 カクテルをひと口飲んでから、カケルは言った。

「誕生日を忘れていて、悪かったな。今度の相手は、薄情じゃないんだろ」
 少し皮肉めいて言うと、里伽は、大きく体をこちらに開いて言った。

「薄情、と言ったのは、誕生日のことを言ったんじゃないわ」

 そして、大きく開いた瞳を潤ませて、こう言ったのだ。

「だって、あなたは、私に、本当の気持ちをぶつけてくれなかったじゃない。ちっとも」

 驚いて、開きかけた口から出す言葉が見つからなかった。
 彼女は少し目を伏せて正面に向き直ると、グラスに両手を添えて続けた。

「最初にあなたを見かけたとき。すごく孤独な感じがしたの。それでつい、声をかけてしまった。でも、一緒にいて孤独になったのは、私の方だった」

 彼女は、自分の手元を見つめて、くちびるをかんだ。そして、小さな声でつぶやいたのだ。結婚して、誰かのものになることが、こんなにも寂しいことだなんて、知らなかったわ、と。

 そう言いながら、また、お前はだれかのものになるんだろう。心のつぶやきをそのまま外に出すように言った。彼女は悲しみと愛おしさのないまぜになったような瞳でカケルを見たあと、ふっと笑った。
 矛盾してるでしょう。でも、このまま一生ひとりでいるのもイヤだったの。次に結婚する人は、優しい人よ。何だか力がぬけていて。甘えられるの。そう言って里伽は、カケルが見たこともないような顔で笑った。新しい男の、何か他愛ない仕草を思い出しでもしたのだろう。

 優しく気遣うことだけが、愛じゃないってことか。じゃあ、言いたいこと言い合って、けんかでもすればよかったのか、というと、そうでもない気がした。

 別れ際、彼女は少し寂しそうに笑って、カケルに言った。もしも、次に誰かを好きになったら、ちゃんと甘えてね、と。もう、自分のものではなくなってしまった里伽の声が、耳に残った。


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