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ペニー・レイン Vol.7

 その夜は、夕方寝てしまったせいもあって、さっぱり眠れなかった。
「ねえ、マスター」 
 ぼくは、開店前にグラスをせっせと磨いているマスターに話しかけた。ぼくは、あの夜ママがひとりで座っていたのと同じ席に座っていた。マスターは、手を動かしながら、なんだい、とおだやかに聞いた。
 ぼくが試験で点が悪かったとき、学校で友達とけんかして気持ちが沈んだとき、なぜかマスターにはぽろっと気持ちを吐き出してしまう。ママにも、もちろん同じ事は話すけど、そのときのほうがちょっぴり緊張することもある。


 ぼくは、オレンジジュースのコップの底をずらして、そこにできた水の輪を指でなぞりながら、とつとつと話した。
「なんか、ママ、ぼくに隠してないかな」
 マスターは、ちょっと手を止めて、ぼくの顔を見た。
「だってさ、ここ最近なんか元気がないし、それに」
 マスターの眼鏡にライトが反射して光った。
「それに、なんだい?」
 ぼくは、ここに座っていたママの姿を思い出した。
「……ううん、なんとなく」
 ぼくは目をふせた。ママが悩んでいるみたい、ってことを、ママのいないところでマスターに言うのはよくない気がしたのだ。マスターは、再びグラスをふきながら、落ち着いた声で言った。
「心配することないよ。ちょっと疲れているのかもしれない」 
 マスターの言い方は、とても誠実だった。ぼくは話題を変えた。
「マスター、昔、ここに絵があったでしょ」
「絵?」 
 ぼくの突然の質問に、マスターは意表をつかれたように聞き返した。
「そう、ピアノがあって、若いころのママと、男の人が何人かいるやつ」
「ああ……あの写真のことかい。ずいぶん昔のことなのによく覚えているな」
 マスターは、心から驚いたようだった。
「ディッキーがまだ三歳ぐらいのときのことだよ」
 ぼくは、オレンジジュースをひと口すすった。
「あの絵、どこにいっちゃったの」
 そのとき、ぼくは自分でも気づかないくらい真剣な目をしていたんだと思う。マスターは、言葉につまった。
「……どうして、急にそんなこと思い出したんだい」
「どうしてって……」


 どうしてだろう。

「あの絵は、音楽と一緒に消えたの」。

 ぼくが、その絵のことについてママに聞くと、ママはいつもそう答えた。何度聞いても答えは同じで、その意味はよくわからなかった。

 答えるときの、ママのなつかしむような遠い目。ぼくは、もう一度、ここに座っていたあの夜のママを思い出した。顔をふせる前の遠い目……。ぼくは、マスターの目をまっすぐ見た。
「ずっと昔は、このお店でもライブをやってたんだよね。それをやらなくなって、あの絵も店から消えて」
 マスターは首を横に振って言った。
「ディッキー。一体、何が言いたいんだい」
 ぼくはうつむいてぽつりと言った。
「なんていうか、ぼくが覚えているころから少しずつ、ママもお店も活気がない」
 マスターはため息とともに笑いをもらした。
「やれやれ。お店のことまで気にしてるのかい。こりゃ、まいったな」
「違うよ」
 ぼくは顔をあげた。
「ママがなんとなく元気がないのは……あの絵が店からなくなったのは……」

 何て言っていいのかわからない。ぼくはいったん言葉を区切った。そしてつばを飲みこむと一気に言った。
「あの絵は、ママの過去に関係があるんじゃないかと思うんだ。ぼくについての」
 マスターは、言葉を失った。ぼくは、ひとつひとつ区切るようにたずねた。
「ねえ、マスター。……ぼくの〞パパ〟は、あの中にいる……?」


 自分でも、びっくりした。ぼくは、何を言ってるんだろう。
 のどがからからで顔が熱い。早く何か言って。マスター、何言ってるんだ、と笑い飛ばして。ぼくは、泣きそうになるのを必死にこらえた。マスターは、カウンターの向こうからこちらに出てきて、黙ってぼくに近づいた。そして、大きな手で、ぼくの頭をやさしくなでた。
 もうだめだ。
 下を向いたぼくの目から、熱い涙が流れだした。マスターは、ただ黙ってぼくを抱きしめてくれた。


 どれくらい、そうしていただろう。
 泣きすぎて頭がぼんやりする。ぼくは、マスターがわきに置いてくれたティッシュで、思いきり鼻をかんだ。
「大丈夫か」
 ずいぶん間があって、マスターはぽつりと言った。ぼくは、まだぐずぐずする鼻を押さえて、うん、とうなずいた。
「ずっと、そんなことを考えてたのかい」
「ううん」
 ぼくは首を横に振った。そう、別にずっと考えてたわけじゃない。なぜか、ママの悩む姿とぼくの中でもやもやしていたことが、まるで電流が流れたようにつながった。そして、それは核心をついたかのようにぼくの口から飛び出したのだ。


 マスターは、ポケットからたばこを取り出すと、火をつけて、ふうっとため息のように煙を吐き出した。
「きみの〝パパ〟は、すばらしいピアニストだったよ。歌も、うまかった」
 たばこの煙が、ゆらりくらりと立ち上る。マスターは、ぽつりぽつり、と昔の話を始めた。

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