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ペニー・レイン Vol.8

 ママが、歌手になるのを夢見て、イギリスからアメリカに渡ってきたのは、今から十七年前のことだった。ママは、十七歳だった。ニューヨークのクラブハウスでウェイトレスのバイトをしながら、ときどき歌を歌っていた。当時、〝パパ〟はそこでピアノ弾きをしていた。無口で、無愛想で、ピアノを弾くことしか興味がないかのように、生真面目な人だった。バーテン見習いだったぼくとも、言葉をあまり交わすことはなかったな。
「そんな彼が、ひと目で恋に落ちたのさ」


 小さな顔に、長いまつげの大きな瞳。マーガレットは、きゃしゃだけど、ステージに上がると、ぽっとバラが咲いたようにやわらかいオーラを出す子だった。イギリス育ちの上品さがあったのさ、と言ってマスターは微笑んだ。
 マーガレットは、店が終わってからもよくひとりで歌の練習をしていた。健気に夢に向かう少女に、彼はピアノの伴奏を申し出た。二人が愛し合うまでに、そんなに時間はかからなかった。


 マスターは、上を向いてふぅっと、天井に向って煙を吐いた。
「……どうして二人は別れたの」
 ぼくはたずねた。
「二人の間に何があったのか、本当のところはだれにもわからない。ただ、別れたあと彼は、あるビック・バンドに入って名声をあげた。彼女は、それからまもなく故郷のイギリスに帰った。その後きみはロンドンで生まれた」


 マスターの口からは、淡々とした事実しか語られない。けれど、ぼくの頭の中には、若き日の〝パパ〟とママの物語がモノクロームの映画のように、ゆっくり広がった。ママは、涙で潤んだ瞳でニューヨークの街を振りかえり、〝パパ〟はその視線をつかまえないように、前を見て進んだ。

 お互いを気にしながら、二人の視線は二度と交わることはなかったのだ。
 そして、今マスターは、ここでバーテンをしながらママとぼくのそばにいる。


 きっと、大人にはぼくがまだ知らないドラマや感情のうねりがたくさんあるんだ。そして、それははっきりさせないほうがいいことだってあるのかもしれない。
 ぼくは、なぜか途方もなく切ない気持ちになった。それと同時に、ぼくがマスターとこうしていることの運命を思い、体の奥が温かくなるのを感じた。
「マスター、ありがと」
 ぼくは、できるだけ愛情をこめて言った。マスターは、少し照れた顔をして、何だよ急に、と軽く笑った。突然、恥ずかしさが込み上げてきた。ぼくはすっくと立ちあがると、急いでドアへ向った。そして、あ、と振りかえると、こう付け加えた。
「今日のこと、とくにぼくが泣いたことはママに言わないでね」
 マスターは、軽くウインクして親指を立てた。
「ああ。男同士の約束だ」


 それからしばらくたったある日、学校で作文のテストがあった。
 題名は、「わたしの家族」。ぼくは、その作文をこうしめくくった。
 〝ぼくの家族はママだけだけど、マスターや、ニッキ―おやじ、たくさんの人たちに囲まれて、毎日幸せです。〟


 作文はとてもいい評価を得た。たぶん、それまで受けたいろいろなテストの中で、一番先生にほめられたと思う。テストが返された夜、ぼくはうれしくって、階段を一段飛ばしで一気に飛び降りて閉店まぎわのお店に向った。ママがベッドに来るまで待ちきれなかったのだ。戸をたたこうとしたそのとき、中からママの興奮した声が耳に飛び込んできた。
「しょうがないでしょう」
 向いあったマスターとの間に、いつもとは違う緊迫感があった。
「世の中の流れよ。わたしたちだけじゃ、どうしようもないの」
 マスターは、ママを見つめてこう言った。
「もしも店を閉めることになったら、そのあとはどうするんだい」
 ぼくは、その場に凍りついた。店を、閉める? ママは、うつむいて、言葉をにごす。
「どこか……職を探すしかないでしょう」
 マスターは、深いため息をもらした。
「……きびしいな」
 ママは、すとん、といすに腰掛けた。
「来月には、ノートン氏のところへ返事に行くわ」
「ぼくがもっと力になれたらいいのだけれど」
 マスターの横顔が、弱く見える。ママは、軽くため息をもらして言った。
「いつもありがとう、トニー」
 無意識に、ぼくは裏口のドアをばん、と思いきり開けていた。
「ちょっと待って」
 ママとマスターは、驚いて顔を上げた。
「ディッキー……」
 ぼくは、一歩、二歩と歩を進めた。
「ママ、店を閉めるって、どういうこと」
 ママは、目を大きく見開いた。
「聞いてたのね、ディッキー」
 ママとマスターは、とまどったように、目を合わせた。ママは、決心したかのように軽く息をはくと、ぼくの目をまっすぐ見た。
「お店がなくなるかもしれないの」
 バックで、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」が小さく流れている。
「だいぶ前からね、経営がよくなくて。この建物のオーナーのノートンさんがね、この建物を親戚のアメリカ人に売り渡すんですって。その人が、どうやら、ここを他のお店にしたいらしいの」
「そんな、このお店はそのまま残してくれればいいじゃん」
「もっと、もうかるお店に変えたいんだって」
 ぼくは、思いきり眉間にしわをよせた。
「そんなの、勝手すぎる」
 だって、そうじゃないか。このお店だって、ずっともうからないとは限らない。
「ママは、ここがなくなってもいいの。ずっと大事にしてきたんでしょう。ねえ、ママ」
 ぼくは、ママにかけよって、ひざをゆすった。
「ディッキー。これはね、わたしたちだけじゃ、解決できないことなのよ」
「解決できないって、だれが決めたのさ」
 ぼくは、ママを見上げた。
「ディッキー……」
「ママは、解決しようとしたの。やってみたの」
 これには、ママもマスターも、反論してこなかった。ぼくらの間に、沈黙のときが流れた。突然、ママはぼくを強く抱きしめた。
「ディッキー、ごめんね。でも、ママもどうしたらいいかわからないの」

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