【連載小説】「緑にゆれる」Vol.17 第二章
「向こうは、何て」
「マリちゃん」
「子どもができる前は、彼のこと何て呼んでたの」
「……裕一郎さん」
少し、ためらいつつ、その呼び方を口にする。
「いいじゃん」
カケルは上を仰ぎ見るようにして、目を細める。彼の歩みも、少しだけ遅くなる。
「まず今日、おれと会ったこと言ってみろよ。だんなの顔見てない時がいいな。皿洗ってる時とか。裕一郎さん、って言ってから、今日、元カレに会っちゃった」
「それから?」
少し茶化すように聞いてみる。
「それから」
カケルは、立ち止まって、マリに向き直った。
「わたし、泣いちゃった」
頭上でさわぐ風が、彼の言葉の余韻をさらっていった。
「それで心を動かされないだんなは、いない」
「順番が、違う」
落ち着いて、正した。そう、順番が違う。自分は、彼に会ったから涙を流したのではない。
「そう。順番は、違う。けれど、人の心に深くコミットしたい時には、たまには脚色も必要だろ」
彼の表情は、さきほどまでの軽い表情から、少しだけ真剣な表情に変わった。
「自分の世界がない、って言ってたけど」
カケルはためらいがちに、言葉を選ぶように言った。
「少しずつ取り戻していくしか、ないんじゃないか? 急には無理だとしても」
何かが浄化されるように、心の中がすーっとしていくのが分かった。
マリが何も言うことができずに立ち尽くしていると、彼は、大丈夫だよ、きっと。と言って緊張をほぐすように、にやっ、と笑った。
公園の外の歩道に出た。信号がもうすぐ青に変わる。
ふいに、昔のことを思い出す。デートの帰り際、いつも彼はキスをしてくれた。思いがけず、若い頃のことがフラッシュバックしてしまい、一人慌ててうつむいた。彼は、そんな自分の方をちらっと見てから言った。
「何だかんだ言っても、やっぱりお前には、王道が似合ってるよ」
それから、彼は五月の空を仰ぎ見た。
「だから、大きく外れることなく、そのまま行けよ」
そして、ふっと懐かしそうな目をした。
そっと、やさしく、自分の乗っている船を押された、と思った。
マリは、動いていく船から岸辺にたたずむカケルを見送るような幻影を見た。
そうだね。私たちはそれぞれの人生の流れの中にただあって、もう交わることはない。けれど、自分の乗っている船を降りるべきでも、悔やむべきでもないのだ。その船を選んで乗っていること自体、自分らしく、自然なことであったはずなのだから。
静かな肯定の波が寄せてきて、マリの心を満たしていった。
「じゃ」
彼は、軽く手をあげた。
マリは、やっとゆっくり、笑った。
「うん。元気でね」
彼とは逆方向へ。体を向きかけて、思わず振り返った。そうだ。言い忘れていたことがある。
「カケル」
彼の名を、呼んだ。信号を渡りかけた彼は、立ち止まってこちらを見た。
「カケルは、薄情じゃないよ。わたしの知っているあなたは、薄情じゃない」
灰色の交差点のただ中で、こちらを見つめる彼の目は、一瞬だけ揺らいで、光って見えた。それから、彼は、ふっと片方の口の端を上げて、かすかに笑った。
青信号が点滅して、彼は我に返ったように慌てて向こう側へ渡っていった。
その後ろ姿をなぞらえて消すように、右折車が回り込んできた。
彼は、振り返らなかった。
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