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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.70 第七章


 気がついたら、朝だった。

 初めての寝袋は、かしゃかしゃして感触がおもしろくって、もっと楽しんでいたかったのに、包まれたらすぐに眠りに落ちた。
 隣の寝袋を見ると、空っぽだった。寝袋からはい出してテントから顔を出すと、海が朝の光を浴びて、きらきら光っていた。

「おはよう」
 しゃがんで海を見ていたカケルさんが、振り返って言った。
「いい朝だ」

 浜辺では、犬の散歩をしている人がいる。少し離れた小高い砂山の上で、ヨガのような体操をしている人もいる。ただぶらぶらと、歩いている人もいる。波の間で、魚がはねた。一日は、こんな風にして始まっている。家のある場所からそんなに遠く離れていないのに、すごく遠い場所へ来てしまったような気がする。いつもと、全然違う風に包まれて、圭は胸いっぱいに朝の空気を吸いこんだ。

「すごく、遠くへ来た、って感じ」

 カケルさんの隣に座ってそう言うと、カケルさんも、うん、そうだな、と言った。朝って、いつもの朝は、とってもバタバタしているのに、本当は、静かで清らかなものなのかもしれない。お母さんはいない。カケルさんと二人でいる、新しい朝。二人でいるけれど、一人のような、新しい朝。

 カケルさんがロールパンを手渡してきた。水と、ロールパンだけの簡単な朝ごはんだ。誘拐犯は金がない。そうは言ったけれど、やっぱりそれは嘘だったんだな。さわやかな朝の空気の中で、そう気づく。けれど、だまされた、とかではなくて、それは決して気分の悪いものではなかった。

「美晴のところへ来る前は、いつもこんな感じの朝ごはんだったな」
 カケルさんはそう言って、パンをかじった。
 圭は、いつもの朝ごはんを思い浮かべた。白いごはんに、野菜と豆腐の入ったみそ汁、目玉焼きか、たまに鮭、それから納豆と漬物。デザートにオレンジとかリンゴとか。食べきれないときは、適当に食べられそうなものだけ食べる。みそ汁は、豆腐だけ、とか好きな野菜のとき、具だけ食べる。それって、結構ぜいたくなのかも。
「あんな朝ごはんが出てくるなんて、お前、恵まれてんだぞ。あと、夜ごはんも」
 まるで脳内が見透かされているようなカケルさんの言葉に、少し驚いた。

 食べ終わって、テントをたたむと、二人でキャンプ道具一式を蔵之助さんの所へ返しに行った。道具を借りたお礼と、それから持たせてくれたおにぎりのお礼を言って、後にした。

「今日は、連れて行ってやりたい所がある」
 歩き出してしばらくすると、カケルさんが真っすぐ前を見たまま言った。
 とにかく、歩いた。少しずつ休憩をとりつつ、足は、帰り道をたどる鎌倉へ向かっている。
 いろんな道を歩いた。海岸沿いの青い風が吹き抜ける道。車がたくさん連なって走っている国道沿いの道。海と反対側を見上げれば、おしゃれなパラソルがはためいている。川を渡る小さな橋。電車の線路と並んで歩く道。昔ながらの古びた電車は、圭とカケルさんを追い抜いていく。うっそうと緑の濃い、日陰の道。両側は、いく層にも色の違う縞模様の地層が見えて、さわると湿ってひんやりしている。それからだんだん住宅も増えて、急ににぎやかな街になる。大通りに出て、高いビルも並んでいる。銀行の看板や、コーヒーショップも見える。カケルさんは、ここ、と指さした。スタンド式のカフェだ。

「まだちょっと距離があるからな。特別に休憩」
 カウンター越しにコーヒーを注文して、それからレジのすぐ隣に並んでいる大きなドーナツを一つ、注文した。そして、それを店の人に頼んで半分に切ってもらった。カケルさんは、ここでもなぜかビデオカメラを取り出し、コーヒーカップを真上から撮り、半分こしたドーナツを撮ってから、圭に片方渡した。もちろん、ドーナツを嬉しそうに受け取る圭の顔も、撮っている。
「よっぽど、撮るのが好きなんだね」
 ドーナツにかぶりつきながら言うと、まあな、と言って、圭にカメラを近づけた。少し照れ臭くなって、やめてよ、と言うと、コーヒーカップを持ち上げて、飲むか? と言うので、うん、と首を縦に振った。おそるおそる、カップに口をつける。いい香り。初めて飲むコーヒーの味は。
「にがっ」
 一口飲んで、思わず小さく叫んでしまった。それを見てカケルさんはにやっと笑った。
「まだ十年早いな」
 少し悔しかったので、もう一口だけ飲んで、カップを返した。苦々しい顔もしっかり撮られたようだ。
「そのうち、追いつくよ」
 圭は、口をとがらせて言った。でも、口の中に残った苦さは、決して美味しくはなくて、それを消すようにドーナツをほおばった。

 カケルさんは、ナップザックから黒い革の手帳を取り出すと、何かメモし始めた。時々、コーヒーを口にする。目線はメモから離さないで、手探りでカップを手にする。目は真剣だ。何、書いてるの? と聞いたら、内緒、と言って、圭の顔を見ないで、ひっそりと笑った。

 カッコいいな、と思った。
 カケルさんて、何か、カッコいい。

 すぐ後ろの歩道では、スーツを着たビジネスマンが足早に行き交っている。スマートフォンで話しながら歩いている男の人もいる。みな、厳しい顔をしている。仕事ができそうでもある。でも、いい顔、というのとは何か違う気がする。現に、さっきからずっと眺めていても、ちっとも魅かれないのだ。だれの顔にも。圭は、もう一度、うつむいてメモを書いているカケルさんの顔を見る。

 夏が勇み足で近づいてくるまぶしい朝、雑踏を背景に、周りのことなど何食わぬ顔で、何か書きつけている。片ひじをつきながら。うつむいた顔の周りには、静かに、自由な空気が流れている。前髪とまつ毛が、朝の光に透けて金色にゆれている。時々、ペンを止め、ふっと少しだけ顔を上げ、目を細める。あぁ。世界を見ているんだな、と思う。カケルさんにしか見えない、世界を。

 この日の、この朝の、この光景を、きっとずっと忘れないだろう。ふと、そう思った。
 何かに夢中になって無心で取り組んでいるひとの、美しい横顔を。それによって起こるかすかな清々しさを。



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