【連載小説】「緑にゆれる」Vol.7 第一章
夕ごはんも食べていって、と言われて、そのまま夜までごちそうになった。
「ランチの残りで申し訳ないですけど」
彩りよく配膳されたひよこ豆のカレーと、トマトと小えびのマリネサラダが出てきた。
「ん、おいしい」
昔は、カツカレーばかり食べていたけど、カレーの趣味も変わった。
息子の圭は、美晴の隣で黙々とカレーを口に運んでいた。伏し目がちで、ほとんどこちらを見ない。カケルさんは、お母さんの古い友達なのよ、という美晴の言葉も、あまり彼を安心させなかったようだ。
けれど、カケルがうつむいてスプーンでカレーをすくうときとか、水をぐいっと飲むとき、かすかな視線を感じた。明らかに、こちらを気にしているようだ。きっと、感受性の強い子なんだろう。美晴に似て。
「人見知りで」
ごちそうさま、と言って、そそくさと席を離れてしまった圭を見送りつつ、美晴が言った。
「あと、大人の男の人にあまり慣れてないのかも」
そのあとは、仕事のことから、昔のサークル仲間の話題になった。
演劇サークルの中でも特にカケルと仲の良かった蔵之助は、そのまま大学があった湘南に家を買って住んでいて、奥さんと三人の子どもがいること。ごくたまに、連絡することもあって、毎年律義に年賀状をくれること。ばっちり子どもが写った家族写真が送られてくるよ、と言ったら、美晴は、それっぽい、それっぽい、と笑った。だって、蔵之助さん、絶対いいお父さんになりそうだったもん。
車の音も、人の気配も、まるでしない。自分たちの会話しているこの場所だけが、ぽっと灯がともって息づいているような、そんな静かな夜だった。
時間は、あっという間に過ぎた。話の途中ではあったが、そろそろ帰る、というと、駅まで送っていく、と言う。いいよ、ここで、と言ったら、駅前のコンビニで買い物があるから、と譲らない。
「子どもは。いいの? ひとりで」
そう言うと、美晴は階段の途中まで上って、上に向かって声をかけた。
「圭、ちょっと、買い物しながらカケルさんを駅まで送っていくから」
はーい、と間延びしたような声が上からふってくる。
「自転車引っ張って行って、帰りはさーっと帰ってきますから」
美晴は、軽くそう言ってから、カケルを見つめた。思いがけず、真剣なまなざしだった。
――たぶん。コンビニでの買い物なんて、嘘なんだろう。
美晴は、ふっと息を吐くのと同時に笑った。
「だって、こうやって会うこと、もうないかもしれないじゃないですか」
二人の間に、少しの沈黙が流れた。そうか、とも、いや、また来るよ、とも言えなかった。十五年。今は、生きる場所も時間も、それぞれ違う。同じキャンパスにいて、気軽に会える距離にはいないのだ。時間的にも、心理的にも。時の流れを感じた。
「そうだな」
カケルは、ゆっくりと口を開いた。
「じゃあ、駅まで付き合ってもらおうかな」
辺りは、本当に真っ暗で、民家の灯りだけが頼りだった。
二人は、木々が芽吹き始めた青い香りのする夜の中を、駅までゆっくりと歩いた。
「七、八年くらい前、サークルの飲み会あったんだ。そのとき、由莉奈からちょっとお前のこと聞いた」
「由莉奈さん。なつかしい」
美晴は、ゆるやかな坂を下りながら、ふふ、と笑った。
「誰かから、連絡、来なかった?」
「うん」
そう言ってから、美晴は笑って続けた。
「もし連絡来てもとても行けなかったなぁ」
どこかで虫が鳴いている。じー、というかすかな声。
「人生の過度期、真っ最中だったな」
自転車を引いている美晴の足が、心なしかゆっくりになる。
圭が、今年、九歳。そりゃ、当然そうだろうな、と思う。余裕なんてないはずだ。
「それから、ずっと、過度期が続いたけど、やっと最近、落ち着いてきました」
暗い夜の中でも、美晴がちょっぴり晴れやかな表情に変わったのが分かった。
「ここで暮らし始めた最初のころはね、この自転車の後ろに圭とお弁当乗っけて、海岸まで売りに行ってたんですよ」
蝉しぐれが降り注ぐ中、圭、行くよ、と声をかけて、力んで自転車をこいで行く美晴。小さくもたくましい姿が目に浮かぶ。
「それからしばらくずっと、お弁当を売りに行ったり、現場に宅配したり、ケータリングが中心で。でも今は、やっとお店にして週二日だけどランチも出せるようになってきたし。幸せです」
ふと、横顔を見てしまう。どんな顔で、幸せです、と言ったのか。
真っすぐ前を見つめる美晴は、くもりのない瞳で、先を見ている。夜風が少し伸びた彼女の前髪をゆらす。また凪ぐ。
ほのかに輝いていたかのように見えた瞳は、しかし、短いまばたきの後、ゆっくり濡れて、切ない色に変わった。半開きの口元から笑みは消えて、くちびるはかすかにふるえるように閉じられた。
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