【連載小説】「緑にゆれる」Vol.8 第一章
そのとき、彼女は立ち止まって、小さく、あ、と声を漏らした。
「どうした?」
カケルも思わず、立ち止まった。
「いえ、こっちの話です」
「何だよ」
そう言うと、彼女は、少しいたずらっぽい視線をこちらに投げかけた。
「何日か前に、夢を見て。最後に出てきた人、それが誰だかその時はぼんやりしていて分からなかったけど」
美晴は、少し照れたようにうつむいた。
「カケルさんだった」
そう言って、また、いたずらっぽい目でこちらを見た。
「予知夢、だったのかな」
カケルは、前を見つめたまま、軽く笑った。自分の笑い声が、思いもよらず乾いていて、心とのずれを感じた。明るい大通りが近づいてくる。駅はもうすぐそこだ。
「そう、シェファーズ・パイ」
出しぬけに、言いそびれていたことが、口をついて出てきた。
「あの日、弁当にシェファーズ・パイが入っていただろ。アルミケースに入って」
美晴が、目を丸くして、こちらを見上げた。
「それで、お前のことを思い出したんだ」
学生時代、熱を出して寝込んだとき。美晴が作ってくれたのだった。一度目は、忘れ物を届けに来たついでに、カケルのアパートで。そして二度目は、舞台本番前に、作って届けてくれた。
「ロケの最後の日、バイトの子に、弁当どこで買ったか聞きだした。それで、半信半疑で、店を訪ねた」
駅の看板の蛍光灯がまぶしい。二人は、立ち止まった。
「そしたら、お前がいた。すごいな、舌の記憶って」
夢の中の記憶と、舌の記憶と。互いに、淡い記憶の名残をたどって、今、こうして再会し、向かい合っているような気がした。
「じゃ、また」
もう行かなければいけない。
「元気で」
うん、と美晴はうなずいた。
「カケルさんも」
それから、彼女はにっこり笑った。
「会いに来てくれて、ありがとう。うれしかった」
帰りの電車に揺られながら、次々と思い出があふれ出してきた。
出会う前、留守電に入っていた美晴の声。初めて会ったときの頼りない印象。当時つき合っていた美人なマリのこと。カケルの相手の少女役は、本当はマリがやるはずだった。しかし恋愛関係が壊れて、代役の美晴がやることになったのだ。そんな美晴も、遠く離れた家族の事情で去ってしまい……。
カケルは、電車の窓に映る自分の影を見つめた。
何かに突き動かされるように、雪の町まで美晴を追って行った。母が心を病んでいて、帰れない、と言った彼女を、そのまま奪うように連れ帰った。
そのとき握った小さな手。寒くて、空港でぴったりとからだを寄せ合っていたこと。その、やわらかい触感。自分の中に、その体に、彼女のかすかな記憶が残っていることに、カケルは、今、初めて気づいたのだった。
思い出は、通り過ぎていく夜の風景と共に、後ろへ、遠くへ、走り去ってゆく。
彼女のいる場所から東京へ。電車はどんどん距離を広げていく。彼女は、みるみる遠くなっていく。
ふいに、その流れに逆らいたい衝動にかられた。
今、こうして一人で電車に乗っているのが、おかしいような気がした。
ここに、彼女がいてもいいはずだ、と思った。なぜ、そんなおかしなことを当然のように思ったのだろう? そうだ、確かに、十五年前は、手をつないで彼女を自分のいる場所へ連れて帰って来たからだ。
若かったからだよ、と人は言うだろう。
でも、若かった、ただそれだけで、そんなことができたのだろうか?
そして、もうこれから先、そんなことはできないのだろうか。美晴に対しても、他の誰かに対しても。
カタン、カタン、と規則正しい線路の音が、思い出から遠い場所へと自分を運んでいく。
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