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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.16 第三章 雲の章

 部屋のどこかで電話が鳴っている。それが自分の携帯だ、と気づくまでに、少し時間を要した。心が、今ここにいる自分の体を留守にしていたようだ。
「美晴? 元気にしてる?」
 哀しい記憶の中とはまるで別人のような母の声がして、美晴は一気に現実に戻される。
「お母さん……」
 泣くつもりはなかったのに、ひと言発したら、涙があふれて止まらなくなった。
「どうしたの?」
 無言でしゃくりあげる娘の声に慌てている。
「何かあったの?」
 ううん、何にも、と小さく言うのが精一杯だった。美晴が落ち着くのを待って、まだお米はあるか、とか、夏休みは帰ってくるのか、とかいう話をした。美晴は、うん、とか、たぶん、とか簡単な返事を返す。ちょっとの間のあと、母は言った。
「あんまり思いつめんで」
 それは、私に言う言葉じゃないよ。お母さん。それは――電話を握る手が、しっとり汗ばんでくる。
「お母さん、あのとき、本当は東京行きたかった?」
 長い沈黙のあと、戸惑いを振り払うような母の声が電話から聞こえてきた。
「何言ってるの。この子は」
 まともに答えてくれなくていい。言っただけで、美晴の心は少しだけすっとした。
「えへへ。そうだね。変なこと言ってごめん。また、こっちにも遊びにおいでよ。海もあって、いい所だから」
 その夜は、ゆっくり丁寧にじゃがいものポタージュを作った。自分だけのために。少し心が疲れている自分を癒すために。ひと口飲んだら、それは心に体にしみ渡った。やっぱり、こういう時はじゃがいものポタージュに限るわ。まだ芽が出て間もない若木が再生するように、自分がよみがえっていくのが分かった。

 次に会ったときも、その次に会ったときも、何だか美晴は、カケルの顔がまともに見られなかった。見たら、あの日の暗い雲のように得体の知れない怪物のような感情が、自分の中にむくむくと立ち現れてしまいそうで、怖かった。また、明るい声で発声練習をする仲間たちの中にいると、あの日二人で出かけたことがまるで大きな罪のようにも思えた。何も悪いことはしていない。何もしていない。
 そう、心の中でくり返しつぶやきながら、発声練習をしていると、または動きのレッスンをしていると、ふいに、二人で眺めていた青い風景と、そのときのカケルの横顔がよみがえる。すると、急に胸がざわめき、叫び出したくなるような衝動にかられるのだ。
 きっと、私は、彼の秘密を知ってしまったんだ。
 あ――――――――っ
「……おい、いつまで発声してんだ」
 声をかけられて我に返る。周囲からくすくすと笑いがもれる。カケルは、いつも通りのクールな日常の目をしている。
 ああ。よかった。
 久しぶりに目を合わせた。彼も、いつも通りで、私もいつもの自分を保っていられる。何とか。
 それから、やっと自然にカケルを、全体を眺めることができた。
 パントマイムの練習ののち、舞台の練習に入った。前半部分の立ち稽古が、始まっている。
 軽妙で、コミカルな動きをするカケルとまさるちゃんを、美晴は不思議な気持ちで見つめる。
 まさるちゃんは、まさに今回の役にぴったりで、役を地で行くような人だ。いつもチョコ菓子を食べていて、美晴に「食う?」と言って、お菓子をくれる。居心地がすごく悪かった劇団に、少しずつなじんでいけたのは、このまさるちゃんのチョコ菓子によるところが大きい。まさるちゃんのつやつやした丸顔には、初対面から親しみがもてた。たぶん、地元のどこかで会いそうな、土の匂いの気配がした。最初のパントマイムの練習のとき、うまく体が動かず、硬直してしまった。恥ずかしさのあまり、うつむいて泣きそうだった美晴に、「食う?」といって差し出された丸い手。手のひらの中に、パンダの絵のついたお菓子があった。
「それ、当たり」
 パンダが、手に紙を持っていて「ラッキー!」と書いてあった。美晴は、思わず吹き出した。

 当初、美晴はいつも緊張していた。
 特に、部長のカケルはクールな印象で、とても相手にされていない、と感じた。
 目の前で、役のまさるちゃんにツッコんだり、軽口たたいたりしているカケルを見ると、それはそれでぴったりで、ますます不思議な気持ちになる。コミカルに動いていても、初対面から続くクールな印象や、あのとき島で見せた深遠な表情も彼自身であって、違和感はない。
 でも、どの姿が一番彼らしいんだろう。
「相変わらず、引き出しが多いよな」
 カケルの演技を見ていた蔵之助さんが、ぽそっと言う。
「わたしは今回みたいなコミカルな役のカケルの方が好きかなー」
 由莉奈が相づちを打つ。

 最初、絶対に仲良くなるのは無理だ、と思っていたこの二人が、美晴は好きだ。二人の会話にはさまれていると、美晴は、子猫のような気持ちになる。会話には加われないのだけど、どちらかのひざに抱かれて、なでられているような、安心して甘えられるような気持ち。たぶん、二人の包容力によるのだと思う。
 蔵之助さんは、見た目とは裏腹で意外と面倒見がよく、変な間をつくらない。言葉数多くはないが、沈黙で居心地悪そうな空気を読んで、さらっと場を和ましてくれる。こわもてなのに、そういう優しさがある。
 面倒見の良さでいったら、由莉奈の右に出る者はなく、ほぼ強引に人を輪に入れようと機転を利かせてくれる。最も、最初は住む世界が違いすぎる、と思っていた。いつも、香水やお化粧の匂いがしていたし、大きなイヤリングや綺麗にほどこされたネイルからも、すごく大人な印象を受けた。特に印象的なのが、その完成された笑顔で、口紅で彩られた大きな口は、笑うと口角がきれいに上がり、まるで化粧品のCMに出てくる人みたい、と思った。つまり、美晴が身につけたことのないものすべてをまとっている女の人だった。なので、気さくに話しかけられても、最初はなぜか、どきどきした。
 あぁ、これが田舎から出てきた、ついこの間までイモだった高校生によるものだ、と気づくまでに、しばらくかかった。初めて会う人種、初めて知る大学生の生態、とかく初めてだらけで、つねにドキドキしたり緊張したりするのだ。
「衣装、どういうのにしようか」
 脚本を見つつ、由莉奈が佳乃に話しかける。
「そうですね」
 佳乃が、静かに教室の隅で一人立ち稽古をしているマリに目を向ける。

Vol.15はこちら)          (そして、Vol.17へつづく)

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