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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.15第三章 雲の章

 カケルと美晴は、しばらく黙ったまま、並んでその風景を眺めた。
 ただ茫洋と広がる海。とびが、ぴーひょろろーと鳴きながら、ときおり舞い出る。翼をはためかさずに滑空して、どこかへ消えていく。さわさわと、南国の木の細い葉がゆれる。すぐ下には、店のカラフルなパラソルがひとつ、見える。「生しらす」の長い旗も、身をひるがえしている。
「たぶん、最後だと思うんだ」
 ふいに、カケルが口を開いた。
「舞台に立つのも、脚本を書くのも」
 美晴は、黙ってカケルの横顔を見た。
「それが終わったら就職活動かぁ」
 パラソルのすぐ向こうに、赤茶けたトタン屋根が並んでいる。見とれるような美しい景色のすぐ隣で、地味な日々の生活は営まれている。そのさびれた佇まいは、美晴の胸を切なくした。自分も、そういう中からやって来た。そして、たぶん、今こうして並んでいるカケルも。美晴は、図らずも足を踏み入れてしまったカケルの古いアパートをぼんやりと思い出した。こげ茶色の扉のふちが、めくれて変色していた。

 風がカケルを通り抜ける。前髪が風にさらわれて、はらはらと、鼻すじをなでた。彼は、青春の終わりを惜しむかのような濡れた遠い目をしていた。
 そのとき、美晴の胸の中の時計は止まった。
 そのあとは、何を見たのか、何を話したのか、覚えていない。

 気づいたら、下の小路まで降りてきていた。帰りは、長い長い橋を並んでゆっくり歩いた。
「うん、まぁまぁだな」
 しらすコロッケをほおばりながら、カケルがつぶやく。美晴は、いつの間にか手渡されていたコロッケを小さくかじった。まだアツアツのコロッケが口の中に広がる。
「しらすって、意外と合うんですね。でも、じゃがいもはうちのコロッケの方がおいしいかも」
 普通の会話をするうちに、少し意識が戻ってくる。
「うち?」
「うちの実家、じゃがいも農家なんです。だから、コロッケはいつも手作り」
「ふーん。コロッケを手作りするなんて、すごいな」
「そうですか?」
「買うだろ、フツー」
「それは、じゃがいもがたくさんあるから」
 右側に、巨大な暗い雨雲が迫っている。
「ひと雨来るな」
 カケルが空を仰ぎ見て、小さくつぶやく。バイトの店まで自転車を取りに行くという。
「遠回りになるよ」
 早く、別れた方がいい。違う道を行くのだ。頭の中ではそうつぶやいているのに、知らないうちに首を横に振っている。
 積乱雲が、不気味なくらいに大きく盛り上がっている。カケルは、自転車をひいて美晴と並んで歩いてくれた。生あたたかい風が、ほほをなでる。ふいに、ゴロゴロと雷が鳴る。
「やばい」
 カケルがそう言うが早いか、大粒の雨がぽつぽつと振り出した。二人の住まいの辺りまで、あと一キロくらいある。
「走れっ」
 カケルはひらりと自転車に飛び乗る。美晴は走って追いかけた。降り出した激しい雨の中をきゃあきゃあ騒ぎながら走って走って、走り通した。カケルのアパートまで来たとき、そのまま走り去ろうとする美晴に向かって彼が叫んだ。
「傘!」
「ここまで濡れたから、もういい!」
 振り返らずに叫びながら、そのままその場を駆け抜けた。
 全部、雨に流されるといい。今日見たもの、感じたもの、すべて雨に流されてしまえ。
 自分のマンションに帰り着くと、急いで鍵を開け、浴室に飛び込む。服を着たまま、熱いシャワーを頭から浴びた。浴槽にうずくまって、服のままどんどん濡れた。冷たかった服が、だんだん温かくなっていくのが不思議。たまってきたお湯の中で、重たい服を脱いで、服と一緒にバスタブでたゆたった。ひざに頭をうずめる。
 流されてしまえ、流されてしまえ。
 頭の上からは、とめどなく熱いシャワーが降りそそいでいる。

 どれくらい、そうしていただろう。薄暗い部屋の中で、じっと雨を見つめる。やがて雨はやみ、空には、妙に青黒い雲がたくさん浮かんでいる。群衆のような彼らは、すべるように空を行く。不規則なひび割れのような黒い電線に、大粒の雨のしずくがぶら下がっている。夜が迫りくる部屋の中は、がらんとしていて、今、ほんとうに、自分はひとりなのだな、と思った。
 たくさんたくさん泣いたあとみたいに、頭がぼうっとして、心がへとへとだった。
 こういう気分は、覚えている。ぼんやりした頭で、美晴は記憶をめぐらせた。


 突然、母がいなくなってしまったことがある。美晴が七歳ころの、あれは冬の夕暮れだった。前に何があったのか、覚えていない。ただ突然に、母は家を出たのだ。
 その日も、北のぼりの雲が空を走っていた。灰色とオレンジの奇妙に混ざったような色の空で、美晴は、ずーっとずっと、その空と雲を眺めていた。ぞっとするほど、美しい空だった。わぁわぁと、ものすごく泣いたような気もするし、泣かなかったような気もする。ただ、心とからだがすごく疲れていて、ふと気づいて窓を見たら、その空が広がっていた。美晴は、ただその空の美しさに圧倒されながら、ぼんやり思った。
 お母さんも、今、どこかでこの空を見ているだろう。今、どこかへ行く電車に乗ったかもしれない。その窓からも、この景色を見ているだろう。時々は、私たちのことを思い出してくれるかな。
 しん、とした部屋の中で、美晴は、そのときもう、みなしごだった。自分には、母も、父もいない。世界でただひとりきり。
 ふと、その時のことを思い出したのだ。
 次の朝には、母はもう食卓にいて、黙々とごはんを口に運んでいた。
 ずい分あとから、あのとき母は一人で東京へ行こうと思った、と聞いた。東京は、学生時代から父に知り合うまで、母が暮らしていた場所だという。華やかで、すべてがきらきらして見えて、心が軽くなる町、と言っていた。
 でも、と母は言葉を区切った。衝動的に家を出て、空港に向かうバスの中で、ものすごくきれいな夕焼けの空を見たら、何だか急にさびしくなって、そのまま戻ってきちゃった、と。
 やっぱり! 子どもながらに美晴は思った。同じ空を、お母さんも見ていたんだ。そのときの母の気持ちを想像すると、今でも涙が出る。
 いいのに。私は一度、みなしごになる覚悟をしたんだから。時々、思い出してくれるだけでも、いいのに。
 同居している祖母と母の折り合いが良くないことを、美晴は知っていた。

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