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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.78 第八章


 気づかぬうちに、うとうとしてしまったようだ。
 ガシャン、と古いガラスが木枠に震える音がして、離れの引き戸が開いた。

「カケルさん」
 ゆっくり目を開けて頭を向けると、美晴の影がある。

「はい。ラブ・レターですよ」

「おれに?」

 がばっと身を起こして二歩で歩み寄る。差し出されたやわらかそうな美晴の手に、白い和紙の封筒がのっている。どこかで見覚えのあるような丸い文字。封筒を裏返して差出人を見ると、「川島奈美」という文字が目に入った。

「なんだ、奈美ちゃんか」
「なんだ、って……」
 美晴は、少し不満そうに口をとがらせた。
「ほんとに、ラブ・レターかもしれませんよ」

 それから、急に手にしていた手紙を背に隠した。
「女の子の気持ちをチューインガムみたいに吐きすてる人には渡しません」

「ま、待て、よこせよ」
 カケルが背後に手を伸ばすと、今度は左手に持ち替えて体を回す。
「分かった、分かりました。ありがたく受け取るので、下さい」

 わざと、礼儀正しく頭を下げる。美晴は、じゃあ、と言って、やっと手紙をカケルの手に渡した。そして、軽くスキップするような足取りで、デッキを渡って行った。

 手紙に目を落としてから、ふと、彼女が去ったあとを見つめる。
 つかみがたいやつだな、相変わらず。まるで蝶のようだ。つかまえられそうで、決してつかまえられない。すきだらけのようで、すきがない。でも、だから、カケルは安心して自分の気持ちのカギを、捨てることができた。そして、決して不快でないこの距離感の心地よさに身を任せていられる。

 奈美の手紙は、その後、鎌倉での生活はどうですか、という書き出しから始まって、これからを考えあぐねている彼女の心境がつづられていた。


鎌倉の、桜のシーンは圧巻でした。
 私も、ああいうきりっとした女性になりたい。完成されたドラマを見て、自然にそう思えるシーンでした。演技を越える、あの女優さんのたたずまいには、また、カケルさんの心情も反映されていたのだ、と今になって気づきます。
 あれから、時間を持て余して、いろんな人と会ったり、映画を観たり、ドラマを見直したりしています。けれど、一度現場に携わったのちでは、同じところに思いが戻ってしまいます。
 やっぱり、私は、もう一度、カケルさんと仕事がしたい。
 駆け出したばかりの私は、あなたのもとで、何か学び取ろうとした矢先、その道を絶たれてしまったように思えてなりません。

 次に、何か制作するのであれば、ぜひご一緒したい、いつでも声をかけてください、というところで、手紙は閉じられていた。読み終えて、カケルは、ひとつ息を吐いた。ラブ・レターか。ある意味、遠からず、かもしれない。

 カケルは、畳の上に再び寝ころび、腕を組んだ。あの子、いい手紙を書くんだな。意外と。丸い文字とは不釣り合いの内容に、二度、三度、目を通した。
 セミの声は、一層激しく、何かをせき立てるように鳴り響く。いったんスマートフォンを手にしてから、畳の上に、ばん、とふせて置いた。

 筆には筆で返す、が礼儀だろ、やっぱり。

 心の中でつぶやいてから、筆をとった。私用の直筆手紙なんて、思い当たるところ、もう何年も書いていなかった。


 奈美には、今、ちょうど考え始めている企画があること、当分、一人で進めるつもりでいるが、もしも取材対象の承諾が得られて、その段階からかかわっていきたいなら、相談に乗る、と記した。また、これは、おそらく資金も出ない自主制作となるだろうから、そのあたりも冷静に考えて、と添えた。映画を制作して、上映するまでには、様々な段階がある。彼女が、そのどこからどこまで携わりたいかは、一度会って話した方がよいかもしれない。

 知らず知らずのうちに、フリーという道を選びつつある自分に、ついていきたい、という人がいてくれることは、本当にありがたかった。撮りたいものが先だっているが、これから奔走しなければならないことは、その他にもいろいろ出てくるのだ。
 まずは、バイトだな。
 内心できっぱりつぶやいた自分に向かって思わず苦笑する。何て、単純思考なんだ。けれど、自分の中に前向きな風が吹いているというのは、何と気分がいいのだろう。制作の具体的なことはともあれ、対象が受け入れてくれたら、とにかく自前のカメラを手に、撮りためていこう。久しぶりに、血がめぐるような感覚を覚えた。

 しかし、施設からの連絡は、いくら待てどもなかなか来なかった。
 しびれを切らして、いいかげんこちらから連絡してみようか。そう思い始めた頃、見知らぬ電話番号からの電話が入った。

 もしかして。

 施設の先生には、一応、早瀬俊に自分の電話番号を伝えてもらうよう、頼んであった。
 少し緊張して受信のボタンを押した。


 それは全く予想外の声だった。かなり年配の男性の声で、向こうからかけてきたくせに、ひどくとまどっている様子だった。
 草間カケルさん、ですか? はい、と答えると、間野と申しまして、レイコさんのことで、と言う。

 レイコ。母だ。

 ここ二年ほど連絡をとっていなかったので、まるで近況を知らない。

「母が、何か」

 聞き返すと、男は少しためらいがちに言った。

「病気なんです。その……初期のガンで、今、入院しています」

 突然の言葉に面食らい、一瞬、新手のサギかと思ってしまった。電話の向こうでは、バタバタと音がして、背後から母の声がする。

「ちょっと、何、勝手にしゃべってるのよ」
 どうやら、間野の電話は母に奪われたらしい。
「あぁ、カケル? 急に、ごめんね。びっくりしたでしょ」

 言い方はハキハキしていたが、声のトーンは何年か前より、少し元気なく思える。

「まぁ、そういうわけで。でも、もう手術でとっちゃったし、大丈夫。初期の発見で良かったわ」

 つとめて明るく、母が言った。そして、心配かけたくなくて黙っていよう、と思ったんだけど、間野がそれはダメだ、って言って。と、突然の見知らぬ男からの連絡について言い訳をした。間野、と呼び捨てにするからには、懇意な仲なのだろう。
 病院の場所を聞いて、明日見舞いに行くよ、と告げて、電話を切った。



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