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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.34 第五章


 この簡単なメールを打つのに、五分ぐらいかかった。送信ボタンを押すと、まるで一仕事終えたかのように、畳に寝ころがった。
 そして、思い出の曲をかけてみた。モーツアルト交響曲第四十番。この曲が終わるまでに、里伽から返信がなければ、今日は会わない。一人で勝手に賭けをして、静かに目を閉じた。
 複雑な思いとは裏腹に、弦の音は澄んで美しく、畳の上に滴り落ちてきた。

 音楽の力って、すごいな。そんな会話を、いつだったか交わしたっけ。たとえ、彼女と永遠に会うことがなくても、彼女が残していったもの、そして自分の一部になってしまったものを、こうして懐かしく思うことがあるんだろうか。これから先も。体にしみこんでいく、いく層にも重なる弦の音を聴きながら、妙に感傷的になっていく自分を感じていた。

 ふと、目を開けると、美晴が立っていた。ぼう然と、音に身を任せて。一瞬、見間違えかと思った。彼女は、泣いていた。

 つい、今しがたまで考えていたことと、今目の前で起こっている現実とが、うまくつながらず、身を起こしたもののどうしたものか、声もかけられない。
 彼女は、ごめんなさい、と言って、そのまま部屋を去っていってしまった。

 しばし、ぼんやりと彼女が去ったあとの引き戸を見つめていると、部屋の隅に転がっているスマートフォンの着信音が鳴り、ふわっと光った。まるで、蛍が相手を探し求めて発光しているように。

 打ち合わせが終わったら。二人でよく行ったカクテルバーで。

 カケルは簡単に返信しつつ、時刻を確認した。もう、出なくてはならない。カフェのある母屋の方を眺める。このまま、声をかけずに行こう。風に揺れる庭先の木々の葉が、心なしか重たそうに見える。


 うーん、と言って、プロデューサーの沼沢さんは腕を組んだ。
「子どもの実態を切りとるだけじゃあ、ねぇ」
 カケルの企画書に目を通して、軽くため息をこぼした。いまいち、弱いんだよねぇ。
 彼は、しばらく黙っていたが、カケルにこう言った。

「これを伝えることで、何を言いたいの?」

 普段は温かみのある目が、厳しく真っすぐにカケルを見つめた。即答できない自分がいた。企画書には書いたはずだった。いや、違う。カケルは、手に冷や汗がにじんでくるのを感じた。企画書には、明確に伝わるような意図や思いが書かれていないから、そう聞かれているのではないか。最も根本的なことだ。頭に血が上り、こめかみの辺りがドクドクと脈打ってきた。穴があったら入りたい。いや、出直したい。

 カケルは、返された企画書をカバンに押し込み、お時間をとってしまい、すみませんでした、と言ってすごすごと部屋を出た。


 生きることの目標を失っていた頃、ひょんなことから撮影現場に誘ってくれたのが、沼沢さんだった。彼が、カケルの運命を変えた、と言っても過言ではない。会社がつぶれたとき、何か企画あったら持ってこい、と言ってくれたのも彼だ。そんな沼沢さんの期待に応えられなかったのも、情けないような、申し訳ないような気持ちだった。

 児童養護施設の一年間を、子どもの目線で捉えたドキュメンタリー映画。これは、自身の中に、ずっとあったテーマだ。

 里伽と待ち合わせのバーに向かう道をたどりながら、カケルは、自分の中にそのテーマの種が落とされたきっかけに思いを巡らした。


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