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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.76 第八章


 圭を見送った後、ひとり離れに戻った。
 
 圭と一緒にたどった旅を思い返す。圭と一緒に、歩いて走って、寝転んで。海や緑の匂いをいっぱいかいで。

 それは、自分が子どものときにできなかった旅だ。あこがれていた、父親との旅。自由で、気ままで、ただ自然の中に身をゆるす旅。あこがれは消化できないまま、大人になってしまった。ずっと忘れていたけれど、はるか昔に自分の中で秘かに温めていた夢。それは、現実にぬりこめられて、求めることすらなかった夢だった。ふさいでいる圭を冒険に連れ出してやろう、という上から目線だったのに、浄化されて、自分の中のぬぐいきれない何かが昇華されていったのは、自分の方だった。
 今の、圭の周りに、彼を守ろうとしている大人――母である美晴や、適当な大人である自分がいるように、人は、孤独であっても、完全にはひとりじゃないのだ。きっと。

 カケルは、この世界にいる数々のひとりのことを考えた。ひと目しか会っていない、彼のこともまた。

 山積みになっている書類の中から、この間ボツになった企画を引っ張り出す。ぼんやりと紙面に目を落とす。
 企画対象としての児童養護施設。昔、同じ職場で働いていた女性の一人息子は、どんな所に預けられたのだろう。ちゃんと守ってくれる大人のもとへ、たどりついただろうか。

 そのとき、カケルの中に、閃光のようなひらめきが舞い降りた。
 そうだ。彼を、追ってみたら、どうだろう。
 児童養護施設に暮らす子だけを切り取るだけでなく、それと合わせて、そこで育った子が、その後どんな大人に成長しているのか。どんな思いを抱えて生きているのか。何が、彼の支えになったのか。それを見せたら、どうだろう。

 カケルはもう一度、調べ始めた。今度は、児童養護施設のことではなく、彼、を追って。
 まずは、昔、肉体労働で働いていた会社にまで足を運んだ。短期間しか働いておらず、自分のことを覚えていてくれるとは思ってもいなかったが、社長に会って、亡くなった女性のことで、と口にすると、カケルの顔を見て、すぐに思い出してくれた。
 古い書類が無造作に立てられている鉄のラックから、その当時働いていた人の名簿を探し出し、彼女の名前を突き止めた。早瀬彩。そんな名だったのか。けれど、分かったのはそこまでで、その息子の名前も、その子がどの施設に預けられたのかも、分からなかった。
 十三年前の当時、小学校低学年ぐらいだった子は、そろそろ成人している年齢だ。もう、児童養護施設は出ているだろう。
 全国に、施設は六百近くある。その中から、彼を割り出すのは不可能に近いかもしれない。
 けれど、今は他に方法がない。
 カケルは、全国にある児童養護施設を、まず関東圏からリストアップして、片っぱしから電話をかけ始めた。
 十三年前に預けられた、早瀬、という名字の男の子を探している。自分は、母親の知り合いである、と多少事実に上乗せをして。
 本当は、知り合いでも、何でもなかった。ただ、短期間、同じ職場で働いただけだ。言葉を交わしたのも、二言か三言。
 けれど、潜在的に自分の記憶の底に眠っている存在だった。彼女の最期の姿を目撃した、というのも大きいだろう。
 電話で、無愛想にそんな子は入所した記録がない、と断られるたびに、なぜか、どうしても突き止めたい、という強い思いにかられた。
 電話をしながら、なぜ、早瀬彩のことがそんなに気になるのか、記憶をたぐる。


 ある日の昼休み、弁当を食べている早瀬の前を通りかかった。彼女は、コンビニで買った弁当を食べていた。カケルが、少し離れたところでコンビニ弁当を広げると、しばらくして、彼女は丁寧に弁当にふたをして、休憩から上がろうとした。弁当は、まだ半分ほど残っているようだった。
「少食なんですね」
 思わず、声をかけた。彼女は、じっとこっちを見つめると、小さな声で、子どものぶん、と言った。え? と聞きなおすと、家で、小さな子どもがおなかすかして待ってるから、と。

 何か、あげられるものはないか。とっさに、そう思ったことを覚えている。でも、何もなくて、自分の周囲を見たら、さっきコンビニで買ったお茶におまけでついてきたおもちゃが目に入った。カケルは、それを握って彼女の前まで行くと、黙ってその手を差し出した。
「これ。子どもにあげて。おれ、いらないから」

 それ以外は、思い出せない。
 一緒に、黙って働いた。交わした言葉は二言三言。あげたものは一つだけ。それだけの関係だった。次に目にしたのは、静かだけれど強烈な彼女の最期の姿。
 けれど、その少ないつながりもまた、運命のように感じ始めていた。なぜなら――。その母子の有り様は、一つ違えば自分と母親のそれであったかもしれないからだ。


 電話をかけ始めて三日目、ある施設の職員が言った。
「早瀬……少しお待ちください。今、調べて参ります」
 何分か待たされた後、唐突に、だがはっきりと、電話の向こうの声は伝えた。

「あぁ、いました、早瀬俊」

「本当ですか?」

 思わず大きな声を出していた。

「ですが」

 カケルの上ずった声を制するように、電話の声は続いた。
「十年ほど前に、いなくなっていますね」

「いなくなっている、とは、どういう」

「失踪です」

「……え?」

「逃げ出したみたいです」
 ぼう然とするカケルに、声は伝えた。

「そのあと、警察に伝えて探してもらったとは思いますけどね。とにかく、ここへは戻ってきませんでした」

 電話を切って、途方に暮れた。
 その日は、何も手につかなかった。


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