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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.51 第六章


「あ―――っ」

 今まで聞いたなかで、それが一番大きな圭の声だった。
「こ、こ、これ、どこで見たの」
「山奥の寺を下ってハイキングコースを少し登ったところ。道脇の葉っぱの上にいた」
「こ、これ……」

 圭は、顔を紅潮させている。

「名前、知ってるのか?」
「オオミズアオだ……」

 圭は、うっとりしながら、その名を口にした。画面に、食いつくように見入っている。そして、カケルの顔をぱっと見るとくやしそうに言った。

「ずるい……!」

 興奮と恨みとが入り混じったような圭の顔を見て、思わず笑ってしまった。

「何がおかしいの。ぼくの方が、ずーっと前から見たい、って思ってたんだから! カケルさんなんかより、ずーっとずっと強く、会いたい、って思ってたんだから‼」

 まるで、昔から好きだった女の子をとられた、みたいな言い草だ。
「分かった、分かったよ。今度、連れてってやるから」
「ほんと⁉」
 圭の顔が、一変してぱっと輝いた。
「まぁ、会えるかどうか分からないけど」
「そんなこと、分かってるよ」
 自分の方が心得ている、と言わんばかりの口調だ。
「自然のものだからね。そういうものさ。だけど、本当に会えたらなぁ」
「いつかは会えるだろ」
「そうだといいなぁ」
 圭は遠い空でも眺めるように天井を仰いだ。

 学校から、電話がかかってきたのは、それから一日おいて次の日だった。
今年の梅雨は長い。七月も二週目に入っているのに、空は重くたれこめていた。今にも雨が降るか降るか、と雲が水分をためている。そんな空模様の日だった。それでも客足はぽつぽつとあり、お弁当は一つ残して全部売れた。カケルは、カウンターの隅で、美晴から購入した最後の弁当を食べていた。
客足が少なくなったのを見計らって、弁当を買うのが平日の常となっていた。たいてい離れに持っていって食べるのだが、気分によっては店内で食べることもある。

美晴は、焼きあがったばかりのマフィンをカウンターに並べていた。このあとのカフェタイムには、また、二、三、客が来るだろう。店内に、焼き菓子の甘い香りが漂った。

「キャラメルマフィン?」
「惜しい。でもいい線いってます。今日はメープルナッツ。焼きたて、食べたくなるでしょう」
「そんなに売り物に手を出したらだめだろ」
「もちろん、お弁当代と別にいただきます」

 にたっ、と笑う美晴にカケルは冗談っぽく鼻で笑った。
「しっかりしてるよな」
「巻き上げ女、ですからね」
「じゃあ、おれは無職男か」

 そう言ったら、美晴はくすくす笑った。
「巻き上げ女と無職男。悪い!」
「そう。悪い二人だ」
「何でも、できそう。失うものが何もない」
「そう、それに、刹那的だ」
「刹那的」

 美晴が、ぽつん、と言った。
「でも、ロマンチック」

 抑えられたその声は、その場の空気を、しん、としたものに変えた。カケルは、うつむいた。頭の中は、一気に十五年前の舞台にフラッシュバックした。男は、少女のひざに頭を乗せたまま、息をひきとる。心中するんだなぁ、って。わたしには、そう見えました。どういうタイミングでだったか、自分と美晴の演技を見てささやかれた仲間の言葉がよみがえる。

「いつか、そういう映画撮ってくださいよ。〝巻き上げ女と無職男〟」
 しんとした空気を変えるように、美晴が言った。思わず笑ってしまった。
「ラストが悲惨なことになりそうだ」

 美晴もつられて、少し笑った。そのとき店の電話が鳴った。美晴は、電話に出るため背を向けた。



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