【連載小説】「緑にゆれる」Vol.52 第六章
「はい。えっ? そうですか」
仕事上の電話ではないみたいだ。
「はい。はい。……分かりました」
最初は驚いていた声が、やがて沈んでいく。
「はい。では、すぐ伺います」
静かに電話を置くと、美晴は振り返らずに言った。
「カケルさん」
「何」
美晴の緊張感ある声に、カケルは気持ち背筋を伸ばした。美晴が、こちらを振り返った。
「本っ当に申し訳ないんですけど、今からちょっとだけ、お店まかせていいですか?」
「え?」
学生のころウェイターはやったことあるが、おいしくコーヒーをいれる自信はない。
「お願い。学校に呼ばれてしまって」
ただ事ではなさそうだ。分かった、と答えて、簡単にドリップコーヒーのいれ方とコツを教えてもらう。
美晴は、エプロンを外し、キッチンのワゴンの上に丸めて置くと、小さなカバンだけ持って慌てて店を出て行った。石垣の向こうに、彼女の頭だけが見え、すぐにその姿は視界から消えた。
客は、なかなか来ない。カケルは、ぼんやりと店の窓からの緑を眺める。ここに最初に来たとき目にした吉村邸の桜は、青々と葉を茂らせている。
あれが、春にはすべて葉がなくて、桜色一色になるんだからなぁ。どこに、あの色を隠しているんだろう。改めて、不思議に思う。
そして、この庭から何キロも先、いくつもの起伏を乗り越えて、緑はあの楽園に続いていく。人の作った道路に切断されることなく。
人は、大きな土地の流れのあいまに、少し、場所を借りて住まう。ここでは、人と自然の力関係が等しい、いや、むしろ、自然の方が勝っている。そんな気がする。大きな山に抱かれて、その懐に暮らす。自然と呼吸も楽になる。余分な役割は、はげ落ちて、素の自分になる。そして、子どもの頃、何を無心に見つめていたのか、その心を思い出す。子どものころに戻る、と言ってもいい。まだ、世界がきらきらしていた頃の、忘れてしまった自分に。
ここではない、どこかへ。そう思っていた自分に。
自分の中へ呼び覚まされたその言葉に、カケルは、一瞬唖然とし、それから自分の瞳孔が開くのを感じた。そして、遠く空を見上げた。
ガラスの向こうの雲間に、何かを見た気がした。淡く形を変えて重なりゆく雲をふちどるほのかな光。
あいつも、言っていたな。ここではない、どこかへ行きたい、って。
自分の、一番忘れたくないであろう、大切な記憶がゆっくりほどかれる。
あれは、いつだったか、そう、学生のとき、部活帰りに二人で並んで歩いていたときだった。
美晴は、ここではないどこかへ行きたい、と思ったこと、ないですか? と聞いたんだ。このおれに。今まで、誰も気づかなかった、おれの心の底に、その手で触れたのだ。
カケルは、自分の瞳がゆっくりと潤っていくのを感じた。
なぜだか、今すぐに、美晴の顔が見たい、と思った。
つい先ほどまで、一緒にいたのに。今の彼女は、その言葉を言ったときの彼女ではないのに。彼女は、もう、ささいな事では心を揺らすことはない。現実を見てたくましく子どもを育てている一人の母親だ。働く女性でもある。ずい分と、違ってしまった。
けれど。カケルは、おとといの木陰でのときを思う。まだ、少女のような心を、どこかに隠しているのに違いない。
自分は、またそれに触れることができるのだろうか。彼女は、それを自分に見せてくれるだろうか。それは、彼女が自分に心を開いてくれるのだろうか、ということを意味する。
いつしか、自分の離れで彼女が音もなく現れて、静かに涙を流していた姿を思い出す。そして、バスの中でのほろ苦い気持ちを思い出す。
カケルの心は、暗い空同様、陰った。
そう。彼女が思っているのは、自分ではないのだ。
重力に耐えかねて、ひと粒、ふた粒、雨が落ちてきた。雨は見る間に降ってきて、ウッドデッキに大きなしみをいくつも作り、やがてそれはつながり、池のようになった。
あいつ、傘も持たずに行ったな。
客は当分、来なさそうだ。少し迷ったが、カケルは扉の札を「CLOSE」にひっくり返して店を出た。
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