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村上浩康の その一本に魅せられて 第三回「遠野物語」


ドキュメンタリー映画監督・村上浩康氏の映画論評コラム。
第三回目は「遠野物語」です。

「遠野物語」 (1982年 日本 監督 村野鐵太郎)

※この記事は投げ銭方式です。購入せずとも最後まで読むことができます。

日本の原風景を美しく描いた映画「遠野物語」

 この映画を初めて見たのは高校生の時だった。地元の宮城県仙台市で開催された市民映画祭で、たしか最後の大トリに上映された記憶がある。

 私は既に2日間に渡って7本もの長編映画を見ていた。その中には深く心に残る作品もあり、十分な満足感を得ていた。そして最終上映の頃には、かなり疲れてもいた。だからあまり本気でこの映画を見る気も無かった。しかし映画が始まった途端、16歳の私はすっかりその世界に引き込まれてしまった。

 日本の原風景の中で展開される幻想的で哀しい物語。美しい映像と神秘的な音楽。日本の自然や昔の生活をこのように端正に描く映画を初めて見て、深く感動してしまった。そして遠野という伝承の地に対する憧れを強く抱いた。

柳田國男の「遠野物語」はドキュメンタリーだった

 翌日、私は学校の図書室で原作となった柳田國男の「遠野物語」を手にとった。(※ここからは混乱を防ぐため原作を「遠野物語」、映画版を「映画 遠野物語」と表記する)

 あの映画の元になった原作にはどんな美しい世界が広がっているのか、ワクワクしながらページを開いた。

 しかし、「遠野物語」は「映画 遠野物語」とはあまりにもかけ離れていた。そこには映画で観た陶酔的な雰囲気は無かった。民話集だとばかり思っていたが、とんでもない、すべてが具体的で実証的に書かれている。遠野に伝わる不思議な伝承が、村の歴史や習俗と共に実話として綴られていた。河童もザシキワラシも様々な魑魅魍魎も、それを目撃した実在の人物の証言の中で語られていた。なんと「遠野物語」はドキュメンタリーだったのだ。

 例えば河童の出てくるエピソード、普通の民話ならば「昔々あるところにおじいさんとおばあさんが…」と曖昧に始まるところが、「どこそこの誰々の家に…」と実在の地名や人名を明記した上で語られる。もちろん作者の柳田國男は河童の奇譚を実話とは思っていないだろう。しかし、それを語り継いできた遠野の人々の世界では、驚くべきことに河童は異界の者ではなく共に暮らす存在として捉えられている。これを尊重し、柳田は全てのエピソードをドキュメンタリーの体で綴っている。

 さらに各挿話は必ずしも完結しておらず、唐突に幕を閉じるものも多い。不可思議な現象はあくまでも現象としてしか描かれず、説明もない。それがかえって現実的な生々しさを感じさせる。

 「遠野物語」は圧倒的なリアリティと豊かなイマジネーションに満ちていた。遠野という土地の匂いと、そこに生きる人々の素朴な生命力を感じさせた。それは映画版とは違う豊穣な味わいであった。以来、私は幾度となく「遠野物語」を読み返してきた。

 35年ぶりの映画「遠野物語」に見えたもの

 話を映画に戻す。本稿を書くために、私は35年ぶりに「映画 遠野物語」を見た。あれ以来、一度も見ようとしなかったのは、原作を読んだ時に感じた映画とのズレが、感動を打ち消すのではないかと予感していたからだ。

 残念ながらその予感は的中した。35年ぶりに見た「映画 遠野物語」は「遠野物語」のうわべだけを綺麗になぞったようにしか思えなかった。これに心震わされた16歳の私はなんと若かったのか。恥ずかしいような居たたまれないような、むず痒い思いが映画を見終えるまで続いた。

 いや、映画自体はそんなに悪いものではない。むしろよく出来ていると思う。オシラサマ伝説を軸に、身分違いの許されぬ男女の悲恋を描いた本作は、原作の様々な挿話を巧みに配し、遠野の郷土芸能を印象的に織り込み、また時代背景にある日露戦争への反戦メッセージも込められ、それらを美しい映像と幻想的な音楽で包み込み、ひとつの確立した世界を完成させている。とても丁寧に作られた映画だ。

 しかし、しかしである。これを「遠野物語」とは到底思えなかった。「遠野物語」の根底にあるものが全く描かれていないような気がした。それは後に記すが、人間の叡智ということだ。

 「映画 遠野物語」はなるほどいい映画である。良心的な作品とも言える。映画の中に散りばめられた「身分差」「純愛」「反戦」「伝統」「継承」のメッセージ…それらはごもっともであり、反論の余地はない。しかしまるで教科書に出てくるような退屈な正論で、そんなことは言われるまでもない。映画はわかりきったことをわかりきったように描くことに執心し、結果的に生真面目で堅苦しい印象を生み出している。「遠野物語」の持ち味である素朴なおおらかさは無い。

 もちろん、映画は原作とは別物である。原作の精神とはかけ離れていても、それはそれでいいのかもしれない。映画はそれを作る人たちの意図で、いかようにもなっていく、むしろ創作上の自由がなければ、そもそも映画にする意味も無いだろう。

 それならばもう、私は「映画 遠野物語」のことを考えるのをやめにしよう。ここからは映画を超えて惹かれていった柳田國男の「遠野物語」について考えてみたい。

 柳田國男の「遠野物語」を紐解く

 「遠野物語」は明治43年に柳田國男が発表した民俗学の原点といわれる書物で、岩手県遠野地方に伝わる様々な伝承が記述されている。元となったのは遠野出身の作家、佐々木喜善からの聞き書きで、柳田は彼の語りを記録する形でこの作品を仕上げていった。

近代化が進む明治末の日本にあって、現実界と異界が区別なく語られる遠野の伝承は、柳田に大きな衝撃を与えた。その実話性に柳田は強く惹かれた。佐々木から聞く話は東北の寒村に伝わる習俗や信仰、世間話など多岐に渡った内容で、それらの中には神々や妖怪が登場する明らかに事実ではない伝承もある。しかし柳田は、これらをそのまま事実として綴っていった。いや、むしろ積極的に事実として強調したように思える。それは彼自身が記した「遠野物語」序文の有名な一節からも明らかだ。

「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」
(ここで言う「平地人」とは、近代化していく日本人、特に都会人のことを指しているのだと思う。)

 文明の発達と共に日本人が打ち棄てていこうとしている古(いにしえ)からの営み。敬虔なる信仰と素朴な魂。棄てようとしても棄て難い大地に染みついた風土。それらが現実の物語として今も生き続ける驚異。これらを柳田は当時の日本人にどうしても知らしめたかったのだろう。(もちろん彼は決して佐々木喜善の話を忠実になぞったわけではない。そこには柳田独自の解釈と創意がある。ドキュメンタリーとはそういう創作行為だ。)

 さて、ではなぜ遠野では妖怪話や魑魅魍魎の奇聞が事実として語られてきたのか。そもそも彼らが生み出された源流はどこにあるのか。

 科学が発達していない時代、人々は自然の猛威や災厄を、大いなる神々の祟りと畏怖していた。また天変地異とまでは行かなくても、日常に起こる不可思議な自然現象を妖怪や魑魅魍魎のしわざとすることで未知の恐怖を納得してきた。「遠野物語」でも妖怪や亡霊、変化(へんげ)した動物たちの不思議な話が数多く語られている。

 それらの中には自然界の不思議を解釈するために作られたものだけではなく、もっと人間の生活に根付いた、生々しい営みを感じさせる物語がある。行間から現実の厳しさがにじみ出てくるような物語だ。

 もしかしたら人々は苦しい現実を乗り越えるために、妖怪や魑魅魍魎を生み出したのではないか。

 異形のフィクションが、人智の及ばぬ領域へ昇華させる

 例えば「遠野物語」に出てくる河童の子を産んだ女の話。河童の子が産まれ、すぐに切り刻んで樽に入れ埋めたという凄惨な内容が語られる。この話の裏にはこんなことがあるとは考えられないだろうか。医療も栄養も十分とは言えない時代、五体満足で生まれなかった赤子を河童の子ということにして処理したのではないか。あるいは不義密通の末に生まれた歓迎されざる子を、世間体を保つために河童として処分したのではないか。あるいは凶作や飢饉に見舞われた際に、間引きの正当化として河童が方便に使われたのではないか…。

 生きていくうえで起こるどうしようもない苦難。厳しい風土の中の想像を絶する現実。それらを異形のフィクションとして上書きすることで、人々は苦しみや哀しみを人智の及ばぬ領域へと昇華させたのではないか。

 こう考えると、「遠野物語」に登場する他の妖怪や怪奇現象にも人間生活の現実が透けて見える。山女や山姥は、嫁姑の家庭問題から山へ逃れざるを得なかった哀れな女たちの末路を暗示しているのではないか。神隠しは間引きや人身売買の暗喩ではないか。白馬と娘が契りを交わすオシラサマ伝説は、馬小屋で密会を重ねた男女の許されぬ恋を象徴しているのではないか。

 勝手な想像ではあるが、全く的外れとも言えない根拠もある。それは「遠野物語」の中で語られるデンデラ野のエピソードを読むとよくわかる。デンデラ野とは、高齢になった人々が家から出て野原で老人だけの共同生活をするという、いわば姥捨て伝説の一種である。姥捨て伝説自体は日本各地に伝わるもので、実在の根拠を示すものは無いらしいが、しかし遠野のデンデラ野の伝承はかなり具体的に描写され、真実味を帯びている。曰く、老人たちは昼間に里へ出て農作業の手伝いをして食べ物をもらっていたとか、朝出かけることをハカダチと呼び、帰ることをハカアガリと呼んだとか、ディテールがしっかりと語られている。またその一方でどこか幻想めいた雰囲気もあり、これから先フィクション化されていく、その途中段階の物語ではないかと推測できなくもない。

 さらに「遠野物語」には現実に起こった凄惨な事件も記されている。例えば実母を殺めるために草刈鎌を研ぐ男の話。この男は嫁姑問題のこじれから母の殺害を決意する。家族の必死の説得にも耳を貸さず、命乞いをする母を殺そうとする。始めは逃げようとした母だが、ついに観念して息子の振るう大鎌に身をまかせる。息子は逮捕されるも、精神異常として釈放され、その後も村内で暮らしている。まるで三面記事に載りそうな事件だ。

 ここには厳しいリアリティがあるが、いずれフィクションのオブラードで包み込まれた妖怪話に変化していく可能性も感じさせる。事件が生々しいうちは実話として語られるが、人々の口から口へ伝えられるうちに、物の怪に憑りつかれて母殺しをした男の物語へ変わっていくかもしれない。

 村という狭い共同体で生きていくためには、お互いに目を瞑らなければならないこともある。見て見ぬふりをしなければならない事もある。そういう時に人々は噂や世間話を、フィクションとして物語化し語り継いできたのではないか。

 人の叡智の結晶たる妖怪や魑魅魍魎たち

 「映画 遠野物語」の中でも描かれていたが、伝承が次の世代に語られていく場は、夜なべの仕事の席であった。囲炉裏端で年寄りや女衆が村の伝統や風習を子供たちに教え説く中で、生々しい噂話がカモフラージュされ不可思議な怪異譚として伝わっていったと想像される。

 こう考えると、妖怪や魑魅魍魎は人間が生きていくための知恵の産物と言えるのではないか。彼らはいわば人間の叡智の結晶だ。

 だからこそ、彼らは単に恐ろしいだけの存在ではなく、どことなくユーモラスな味付けもされ、21世紀の現代においても親しみのある存在として人々に受け入れられているのではないか。私たちが怖がりつつも彼らに惹かれるのは、人生の暗部を創造で昇華した人間のしたたかさやたくましさを感じ取っているからかもしれない。

 「遠野物語」は、いにしえの人々が生き抜くために紡いだ魂の記録であった。一旦フィクション化された物語を、柳田國男はもう一度現実として捉え直し、そこに秘められた叡智を変わりゆく世に残そうとした。「遠野物語」をあくまでもドキュメンタリーとして記した理由はそこにあったのではないだろうか。

 人は物語を作り、物語を求め、物語を伝える

 さて、最後にもう一本紹介したい映画がある。それは「映画 遠野物語」が作られた同じ頃、遠野から南西に百数十㎞離れた山形県上山市牧野村で撮影を続けていたドキュメンタリー作家・小川紳介の作品、「1000年刻みの日時計 牧野村物語」である。

 この映画は、スタッフと共に牧野村に移住した小川紳介が稲作をしながら製作したドキュメンタリーで、自らの農業の記録や、村の歴史、習俗などを、村人の語りや再現ドラマからなる様々な話法で綴った「映画版 民俗学大系」ともいうべき壮大な傑作である。

 4時間にも及ぶこの映画の最終エピソードで、ある老婆の不思議な体験が描かれる。それがまさに現代の「遠野物語」の様相を呈して興味深い。それは老婆の次のようなインタビューで語られる。

 彼女は最近高齢のせいで目が悪くなってきている。すると今まで見えなかったものが見えてきた。例えば、山の神様が里へ下りてきて家の中に入り込み、老婆に火事を知らせにきた。山の神は女二人と男一人の組み合わせであった。このようなことを老婆は世間話でもするように淡々と語っていく。それはとても自然で、ホラを吹いているようには見えない。まるで老婆には本当に山の神が見えているようだ。

 このシーンについて、ある裏話がある。映画公開の前にこれを見せられた老婆の息子が、インタビューの削除を強く主張したというのだ。息子によれば、母は高齢により夢と現実の区別がつかなくなっており、わけのわからない妄言を語っているに過ぎない、これは明らかにウソなので映画からカットして欲しい、こう懇願したという。実際、この老婆の話は村人たちの物笑いの種になっていたらしい。息子からすれば、これは身内の恥でしかない。

 しかし小川紳介は頑としてこれに応じなかった。彼は老婆の語りの中に、失われつつある村古来の精神文化があるとして、どうしてもこれを映画の結末に置くことを譲らなかった。
この話が妄言であるとしても、老婆にとっては真実であり、そこには彼女が生きてきた牧野村の風土がまぎれもなく存在していると確信していたからだ。

 結果的に彼女の証言は事実か虚構かという問題を超え、小川紳介という共同体の外から来た記録者によって物語として定着された。これは物語がどのように生まれるのかを知る興味深い一例である。

 このように、必ずしもその地に暮らす人々によってのみ物語化がなされるわけではない。外界から来た者によって物語が紡ぎ出されていくこともあるだろう。遠野という古来より内陸と沿岸を結ぶ中継地として栄えた城下町にも、全国から多くの来訪者が集まってきた。その人々からもたらされた新たな情報や見聞は、遠野の世間話に様々なアレンジを加え、物語化を促していったかもしれない。

 こう考えると「遠野物語」はまた一段と深みを増してくる。「遠野物語」の根底には、人間が物語を生み出す様々な要因が見え隠れしている。

 人は物語を作る。人は物語を求める。人は物語を伝える。人が生きていくために物語は必要なのだ。「遠野物語」が、今なお私たち平地人を魅了し続けている理由はそこにある
                              (おわり)

「村上浩康のその一本に魅せられて」
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【村上浩康・プロフィール】
1966年宮城県仙台市生まれ。
2012年 神奈川県愛川町で動植物の保護と研究に取り組む二人の老人の姿を10年間に渡って記録したドキュメンタリー映画「流 ながれ」公開。
第53回科学技術映像祭文部科学大臣賞 
キネマ旬報文化映画ベストテン第4位
文部科学省特選 

その他の作品 
2012年  「小さな学校」
2014年  「真艫の風」
2016年  「無名碑 MONUMENT」
現在、東京都に残る唯一の天然干潟、多摩川河口干潟を舞台にしたドキュメンタリー映画を製作中。

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