植物がマジ尊すぎてリスペクトが止まらない理由は「生えてる」から
僕は植物が好きだ。
でっかい大樹も好きだし、ちっちゃい雑草も好きだ。
雪国の針葉樹も好きだし、南国のヤシの木なんかも好きだ。
春の新芽も好きだし、真っ赤になった秋の葉っぱも好きだ。
要は、植物だったら何でも好きなのだ。
以下、植物への一方的な愛を語ります。たぶん読んでもあんまり得られるものはありません。ビジネスに役立つノウハウや、創作に役立つ有益な知見のようなものもおそらく拾えません。それでも読むのはあなたの自由ですが、最後まで植物への一方的な愛を語るだけですのでどうぞお許しください。
「もっと植物の近くにいたい」
という理由で大学卒業後の約3年間、僕は花屋で働いた。しかし花屋というのは、ある種の「小道具さん」的な立ち位置で、花というマテリアルを使って花束やブーケやアレンジメント等のコンテンツを創る職人的な仕事である。「文明の中の小道具さん」。それが花屋だ。
それはそれで楽しかったのだけれど、花屋で扱う花の多くは市場に並ぶ時点で切り花になっており「根」からはすでに切り離されている。しかし、植物というのは根っこがあってこそ植物であるわけで、花や茎や葉っぱというのは植物の「一部」でしかない。
「花が好き」というよりも「植物が好き」だった僕の欲求は、花屋という生業では完全に満たされるわけもなく、「さらにもっと植物の近くにいたい」という理由から、花屋が閑散期になる夏の時期を見はからって休暇をもらい、千葉の山奥で林野庁が毎年行っている林業研修に3週間参加し、チェーンソーで杉の木を伐採する、ユンボで穴を掘る等、花屋には一生必要ないであろう技術を身に付けて帰ってくる、などということもあった。
そんな僕の「植物が好き」な気持ちは花屋をやめてしまった現在もさしてなくなる気配がない。植物は見ているだけで楽しいし、ふれてみればさらに楽しい。とにかく植物はいい。すばらしい。その存在そのものが好きだ。大好きだ。植物はいい。尊敬すらしている。恋という体験はリスペクトを伴うものだ。そうだろう?
植物のどこがそんなに好きなのか?
と聞かれれば、それは「生えてるから」という一言にまずは集約される。
「生えてる」のって超やべえよ
僕がそう感じる理由を以下に述べよう。
「植物が生えている」
この現象をもう少しだけ因数分解すると、こうなる。
「下へ向かって根っこが生えている」
「太陽へ向かって伸びるように生えている」
僕は植物を見るたびに、この「下に向かって生えてる」と「太陽に向かって生えてる」という2つの事実を発見する。そしてそのたびに感動する。そのたびに「ああ、植物っていいなあ」とひとりで想う。「うわあ、生えてるよ……やべえ……」とひとりで想う。
この感情をもう少し噛み砕いてみよう。
「下に向かって生えてる」
この事実は、僕に「土」の存在を教えてくれる。
近代に発達した都市空間では「土」の存在は消えている。アスファルトに覆われた地面の上では、僕は「土」の存在を感じることができない。だから、自分が「土の上に暮らしている」という当たり前の事実を、つい忘れてしまう。そうすると、都市空間に暮らしていることのリアリティが逆に強くなりすぎる。これは精神衛生上、あんまり気持ちのいい状態ではない。「人間は、土から離れては生きられないのよ」というナウシカの言葉を思い出してもらいたい。「姫さまっ!!!」と涙目で叫ぶミト爺になったようなキレイな気持ちで聞いてもらいたい。
近代の都市空間に暮らす僕にとって、「土の上に暮らしている」ことを思い出す習慣は大切だ。この黒いアスファルトの下には、たしかに土の大地が広がっている。そのことを思い出した時、心身はバランスがとれるのだ。地に足がつく、という感覚とも言えるだろう。足というものは、大地を欲している。
そのためには、アスファルトではなく「土」の存在感にふれることが必要なのだ。そして植物は、まさにそのことを教えてくれる。「下に向かって生えてる」という事実を通して。そのことを発見した瞬間、僕は「人間は、土から離れては生きられないのよ」というナウシカのごとき輝きをそこで生えている植物に発見し、「姫さまっ!!!」と涙目で叫びたいような感動に包まれるのだ。ああ、植物、尊いよ尊いよ。
「太陽へ向かって伸びるように生えている」
次にこの事実についてだが、これはもちろん「太陽」の存在を僕に教えてくれている。
しかし、バカ言っちゃいけねえよ。太陽は土と違って都市空間だろうがどこだろうがバッチリ見えてやがるじゃねえか、という意見もあるだろう。たしかに太陽は見えている。その温度も光も、雲さえなければいつでも感じることができる。
しかし、「僕らの生活のすべての根源は太陽である」ということは、意外なほど忘れ去られているのではないだろうか?
まあこれは、宇宙船地球号的な話になってしまうのだが、要は僕らの生活を支えるあらゆるエネルギーの源は「太陽」である。そのことを植物は「太陽に向かって生えてる」という姿勢によって表現してるのだ。と思っている。ああ、尊すぎる。
植物は日光を浴び、光合成を行う生き物だ。大気中の二酸化炭素をとりこみ、酸素を吐きだしている。天才かよ?そう、植物はみな天才なのだ。
この光合成により、僕らは酸素を吸い込むことができる。だから僕らは息を吸い込むたびに、「植物さん酸素を化合していただきありがとうございます」と感謝しなければならないし、息を吐き出すたびに「この二酸化炭素をどうか光合成してくださいよろしくお願いします」という低姿勢をキープしていてしかるべきなのだが、僕はバカなので基本的にそのことを忘れている。しかし植物はそんな僕の非礼をなじることもなく、今日も明日も光合成してくれている。ああ、なんて尊み。
そして光合成とは「植物と太陽との連係プレー」である。いや、連係プレーではないか。別に太陽は植物が光合成しようがしまいが光ってるわけだし。なんだろう。それはきっと「受信」みたいなことなんだよね。太陽光を受信するアンテナ。そう、アンテナなんだよね。
植物を見るたびに、これってぜってーアンテナだよな…?この太陽に向かって全力で伸びてゆく感じとか、いかに日光を効率よくキャッチするかに全集中された葉っぱのフォルムとか、コレぜってーアンテナだよな…?と、思うのです。
で、植物がそんな感じで太陽光を吸収してくれたおかげで、酸素がつくられ、動物は呼吸ができて、おまけに植物内に固定された窒素を動物は植物を「食べる」という行為により、みずからの体内に摂り入れることまでできるという恩恵を受けている。つまり僕らは、なんということでしょう、植物を通して太陽を体内に摂り入れることができているのではないでしょうか。
まじかよ。
そんな風に感じてもらいたい。そしてこの植物の偉大さを前に涙し、その包容力に安堵し、今夜は深く眠れ。
(ちなみに、都市の大地を覆うアスファルトの原料は「石油」ですが、石油とは堆積した「植物の化石」が主成分なので、実はあの黒いアスファルトも植物が変異したものなのだと思えば、見た目的にも肌ざわり的にも遠すぎますが、概念的には都市のアスファルトの上を歩くことだって、「植物の上を歩いている」と言えなくもない)
まとめ
一体なにをまとめるというのだ?
植物への愛を?
バカな。
それよりも、こんな端末は今すぐ閉じて、植物に会いに行こう。
コンビニへ行くふりをして、無数の植物とすれ違うよろこびを噛み締めよう。
だが、そんな僕の行為を、植物がよろこんでいるか?といえば、そんなことはないだろう。
植物はきっと、こんな人間の一方的な愛など受け取りはしないだろう。ましてやよろこぶことなど絶対にない。せっかく吸った大気を、グチや悪口の声に変えてしまい、せっかく食したカロリーを、他者との信頼を築くためではなく自己愛を満たすことに忙しく消費するようなこんな僕を、どうしてあの自己犠牲の塊のような生き物である植物が歓迎してくれるというのだろう?
しかし、それでも僕はこれからも植物のことが好きだろう。この気持ちがしぼむことはきっと無い。ナウシカのような強さも清らかさも無いけれど、せめてミト爺のようにおいぼれて醜くて愚かでも、一筋のあこがれと一途さを失わずに持っていたい。ああ、姫さま。
「生えてる」という行為は、つまり「天地人」を表現している。
天ー植物ー地
これが「生えてる」ということ。ここに、「人間」を代入してみる。
天ー人間ー地
近代の都市空間では、この図式をついつい忘れてしまう。それを思い出させてくれるのが、植物だ。
あそこに生えている、あの生き物だ。
アンテナのような、あの生き物だ。
人の住む場所を思い出させてくれる、あの生き物だ。
お読みいただき、ありがとうございました。
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