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「生きろ」なんて他人に言うのは無責任だ。壊れたわたしは、死にたくなったら遠慮なく死のうと思うのだけれど。

この世の中、「生きること」が美徳になりすぎている。生きることこそが正義みたいな世界になっている。上手に生きるためのメソッドだとか、賢く生きるための心得だとか、あなたの人生は尊いだとか、生きることに感謝してなんぼだとか。そんなものが溢れかえる世界に、わたしは息が詰まって仕方がない。
人に生きろという癖に、今生きている人間は一度も今の個体で死んだことがない。輪廻転生があるのならば、正確には前世の記憶がないという話になるのだけれど、ここは等しく人間は同じ時間を生きている動物だという話にしよう。

わたしたち人間は、他人以上のなにかになることはできない。家族や友人、恋人や仲間など、何かしらの肩書きがつく関係になることができたとして、その人の心に触れることができるくらい深い関係になったとしても、自分以外の人間は他人でしかない。その人になることはできないのだから、究極永遠にわかりあうことはできない。
だからこそ、神様が人間を作った時に「心」を作ったのだと思う。様々な経験をすることで、他人を思いやる優しさを育めるように、他人が他人であることを認め合えるように。そして何より、想像することができる動物であれるように。
他人同士以上になることはどうしたってできないけれど、相手を知りたいと思った時に、その人のことを想像をして少しでも分かり合えるようにしてくれたのだと思う。
想像することでしか、他人の心を形作れない。想像したって間違うこともある。でも、想像することができれば、どこかで手を取り合うことはできる気がするのだ。

生きるためには平気で動物を殺すのに、同族が死ぬのは嫌。それが私たち人間の性だ。

自分の世界にいた人が、ある日亡くなった時。もう会えなくなった時。
悲しいと思うのは優しさなのか、はたまた自己愛なのか。こじらせているわたしはいつもそんなことを考える。人の死に対する気持ちについては、あまり追求すべきではないとはわかっている。
でも、色々諦めてしまった今は。
もしも本当に今わたしが死んだらどうなるんだろうと考えることが多かったから、もっと捻くれてしまったのかもしれない。

人が人に生きろと言うのは、あまりに無責任な気がしている。その人の人生の責任なんかとれないくせに、その人の人生の背景を想像し尽くしたわけでもないだろうに、人は簡単に「生きろ」という。
生きるのも死ぬのも、勝手なことだ。生きたければ生きればいいし、死にたかったら死ねばいい。少なくとも今のわたしはそう思っている。
「辛いなら無理しないで」「逃げたくなったら逃げていいんだよ」。優しさでもらうその言葉にも、いつも疑問があった。
無理をしない方法って、なんだろう。
逃げていいって言うけど、どこに逃げればいいんだろう。
その言葉を言えるのは、無理をしない方法を知っている人であり、逃げられる場所がある人なのではないか。
教えて欲しいんだけどな、無理をしない方法を。助けてくれるのかな、逃げたくなったら。
どうにもこうにも息苦しかったのは、こんな拗らせた性格だからなのだろうか。こんなことを考えるのはわたしだけなのだろうか。そんなはずはない気がする。いや、そう思いたいだけだと思う。

過去に一度、道端で強姦をされかけたことがある。その時のことはだいぶ癒えた傷だけれど。
また同じような経験をしたことにより、わたしは心と体が確かに死んだ。
大切な仕事にも集中できなくなって、毎日お酒を吐くまで飲んで、食べ物を食べたら吐いて、あんなに好きだった貝や牡蠣が食べられなくなった。
大好きな漫画「名探偵コナン」のカフェに行った時、カレーにホタテが入っていた。大好きなコナンのメニューなら大丈夫だと思って食べてみたら、無理やり口に入れられたあの感触を思い出して吐きそうになってしまった。食べ残してしまったことに、罪悪感と嫌悪感があって、楽しめなかったのが悔しかった。

この記事を書いている今も、世界のどこかで性犯罪が起きているのかもしれないと想像すると、その相手をわたしは躊躇なく殺してしまいそうになる。殺すだろうな。殺させてくれ。

「この経験があったから強くなれた」と言いたいところだし、むしろこのおかげでだいぶタフになれているとは思うけれど、そんな類の話ではない。
強くなったわけでも、経験豊富になったわけでもない。ただ、自分を諦める方法を知っただけだ。心を殺す方法を知っただけ。そうしないと気が狂ってしまいそうになるから、ごちゃごちゃの頭を、感情を全部ぶち壊して、まるで何事もなかったかのように過ごすだけの日々だ。そうなりたくて、そうなってない。こんなはずじゃなかった。もっと普通に、もっと、本当に普通がよかった。純粋に生きたかった。こんなんじゃないのに、違うのに。
自分のことを可哀想だとか、不幸だとか、正直何度も思ったし、この世界を恨んでいる。

経験しなくてもいいことをした。
どこかのお偉いさんが「この世に無駄なことはない」と言うけれど、無駄とかそう言うものを超えて、人が人でなくなるような出来事もある。
それを語る人はあまりいない。ご立派に語る彼らは、今辛いのは未来のためだとか成長のためだとか、そんなのばかり。

もう、うんざりだ。腐った世界で汚れたわたしは、あまり生きていくことにもう希望がない。
本気で死のうとしていた。死んだあと、家とか奨学金とか銀行とかどうなるんだろうって、初めて調べた。コナンの最終回を見るまで死なないって思っていたけど、あの世にテレビがないとは限らないし、コナンが完結する頃には思いもよらない病気で死んでいるかもしれないし、今にこだわる必要ってなくないのか、とさえ思った。
わたしが死んだら悲しんでくれる人は一定数いると思うけれど、それはきっとありがたいことだけれど、そうでもしなければわたしは人の記憶に残らないしょうもない人間になってしまったとも感じる。
自分が嫌で嫌で仕方がない。もう嫌なのに、絶望しきっているのに、あっちでもこっちでも、生きる美しさや明日への希望を謳う芸術があって悲しくて仕方がない。

死んだっていいじゃないか、別に。
わたしの人生なんだから、終わりくらい自分で決めさせて欲しい。

とか色々考えていたここ数日。ひたすら仕事に打ち込み、あんなに飲んでいたお酒を一週間禁酒したり、いろんなことをしてみた。好きな人に会った時の服とか、思い出のものとか、いつか着ようと思っていたワンピースとか、幼い頃のおもちゃとか。
だいぶ、捨てた。
過去と未来に待ち受けている「いつか」への希望や期待を全て捨てて、数秒先にはいつでも死ねるんだと思って生きていくことにしたら。
心がとても軽くなった。

明日あれをしなきゃとか、仕事で失敗しないようにしなきゃとか、あの人に嫌われたくない好かれたいだとか。そんなものは、最早どうでもいい。無駄だ。考えるだけ無駄だ。
ただ、どうせいつでも死ねるのならば、身も心も汚い今の自分ではなくて、もっと綺麗に、そう、花火みたいに死にたいって思ってから今死ぬのをやめただけ。この出来事が死因になるのは癪だったから、もっとエレガントにポップに死にたいって思っただけ。

身軽になっていくと、自分を取り戻すことができてきた。何かを手にするよりも、何かを手放すことの方が、自分が満ちていく気がする。藤井風さんの「満ちていく」のような今。
ずっと聞いていた優しいこの歌が、わたしの人生のBGMになってくれた気がして。

手を離す、軽くなる、満ちていく



大人になる。
それがどういうことかについて、わたしは永遠にわからない気がしていた。大人なんてものは存在しないのだと思っていた。大人になりたいこどもがつけた、「大きな人」と言うわかりやすい言葉に過ぎないと思っていた。
だけど最近少しわかった気がする。

それは「何かを自ら手放す覚悟をもつこと」なのではないだろうか。

わたしが思うだけの話なのだからこれが正解というわけではない。
仕事も恋愛も、すべてにおいて身軽になり、自分が生きていくために背負っておきたいものだけを持って歩く。執着も執念も、プラスもマイナスも。自分が握りしめていた何かを、手放すことで人は前に進み生きていくのではないだろうか。そうして生きていく人を、この世では「大人」と呼ぶのではないだろうか。わたしはそう言うふうに生きていく人を「大人」と呼びたい。
決して自由なわけではない。無責任なわけではない。その人だけの歴史という名の傷がある。
でも、覚悟を持って生きていくこと。それが「大人」であって欲しい。わたしも、そうなりたい。

上品に生きて、綺麗な自分で死にたい。

辛い。
悲しい。
苦しい。
虚しい。
寂しい。
痛い。
悔しい。
憎い。

マイナスだと言われている感情を人に知って欲しくて発信をすると、メンヘラだと揶揄される。
その癖、自殺のニュースがでると、もっと早くに気持ちを打ち明けてほしかったみたいな意味わかんないことを言いやがる人が一定数いる。
もっと好き勝手やっていい。やばいやつだって思われたらどうしようとか、考えなくていい。どうせ死ぬんだから、死にたい時に死ねばいいんだから、アホくさいほど身軽にスキップして生きればいい。重たい心を抱えてスキップをして、固いコンクリートに足跡がつくくらいジャンプすればいい。重たい身軽さで、白い絶望の中で色を塗るように生きればいい。わたしは明日に期待をせずに、今こんなことを思っている。

生きるのも死ぬのも自分次第。好きに生きていい。これがわたしの今の気持ちです。
見返そうとか、闘おうとか、愛されたいとか。やりがいとか、成功や名誉とか、目に見えるお金や容姿とか。それらに対する気持ちが、汚れる前には何かあったはず。今はそれらに対する感情がすっぽりなくなったけれど、それでも心は満ちている。たまに答え合わせをしたくなる時があって、心が動きそうな時には会いたい人に会って、行きたい場所に行こうと思う。不思議だ。この状態をもう少しうまく表現できるはずという気持ちになっているから、わたしはまだまだ書きたいんだろう。まだみたいものが、聴きたいものが、会いたい人がいるのかもしれない。こんな希望があるから、死ねないんだろう。
一度ならずとも二度死んだ心。心はきっと水でできていて、それが今は澄んでいるような気さえする。濁りのある心がスッと濾過されて。溢れもせず、波打つこともなく。
ある日また、心が動く日が来たら、水滴が落ちる音が聞こえるのだろうか。
そんな日が来たら、諦めた何かを思い出せるのだろうか。

明日、起きた時に生きたかったら生きてみる。嫌になったら、死ぬ。それだけの話。
いつ死んでもいいと思って生きる。重たくて軽い、そんな今のわたし。
絶望を救うのは絶望でしかないから、わたしは自分が抱えている絶望を、書きたいときにここに書いていく。何者でもないわたしが書くのは、希望では決してないかもしれないけれど、それがわたしなのだ。

これまでがなくなることはないけれど、これまでがなければ、今のわたしはいない。
何か一つでも経験していないことがあったら、今の気持ちになっていない。
だからここからは、手放して、お別れして、また出会うのならばそれを受け入れるだけ。
わたしは、確かに生きてきた。何かを求めて、生きてきた。得たものは多いけれど、失ったものの方が遥かに多い。でもそれでいい。それでいいのだ。

今の自分は、嫌いじゃない。
なりたかった自分とは程遠いけれど、嫌いじゃない。満ちている自分を抱きしめて、軽やかに先の見えない人生を歩んでいこうと思うのです。

わたしは確かに、生きてきた。
わたしは確かに、生きている。
わたしはきっと、きちんと死ぬ。
その日が来るまで、もう少しだけ歩いてみる。

いつも応援ありがとうございます。