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女性活躍の難しさを、マルクス主義フェミニズムの視点から構造的に理解する

※こちらはstandfmの音声配信をAIを使って編集し直したものです

最近話題になったあるツイート。
このツイートを入り口に、女性活躍の構造的な難しさについて、マルクス主義フェミニズムの視点からお話ししたいと思います。

バズっていたツイート

まず、7月4日に投稿されたツイートをご紹介します。

今朝のあさイチで「日本の労働制度は家にサポートしてくれる人がいて成り立つ、仕事に全振りできる。その働き方のまま、男女平等として女性をそこに入れようとしたから破綻する。始業を10分遅らせることも難しいなんて、子育てしながらできるはずがない」的なことを専門家の方が言ってて、本当にそう。

このツイートは多くの共感を呼び、7月8日時点で10万の「いいね」が付いていました。

私自身もこの意見に深く共感します。
現在の日本の労働制度は、家庭でケアやサポートをしてくれる人がいることを前提として成り立っています。この前提の社会構造や組織構造のまま、男女平等や多様性を推進しようとしても、うまくいかないのは当然です。


マルクス主義フェミニズムの視点

このツイートを見て思い出したのが、マルクス主義フェミニズム。

女性活躍の文脈に限らず「現代の働き方のモヤモヤ」を構造的に理解するうえで、このマルクス主義フェミニズムが明らかにしてきた視点、そしてフェミニズムが議論してきたこと、は無視できないと考えています。

日本におけるマルクス主義フェミニズムの代表的な存在は、社会学者の上野千鶴子さんですね。
上野千鶴子さんの著書『家父長制と資本制』は、マルクス主義フェミニズムを理解するための重要な一冊です。

と、言いつつ、上野千鶴子さんの『家父長制と資本制』については、正直なところ、私自身はまだ書籍の1/3しか読めていません(難しすぎるんですよね…精進せねば…)。

書籍の紹介については、岩波文庫のサイトに載っていた「編集部からのメッセージ」が分かりやすかったので引用させていただきます。

■編集部からのメッセージ
 学術書で,これほど激しい論争を呼んだ本が近年あっただろうか.
 本書は,著者の理論的支柱を示す主著.1986~88年に『思想の科学』誌に連載されたものに,大幅に手を入れ,1990年10月,小社から刊行された.そして,連載中も単行本が出てからも,大論争を呼び起こしたのだ.

 著者は,「女性の抑圧を解明するフェミニズムの解放理論には,次の三つがあり,また三つしかない」と,冒頭で言い切る.それは,
   1 社会主義婦人解放論
   2 ラディカル・フェミニズム
   3 マルクス主義フェミニズム
である.

 その上で,労働者階級が勝利し階級支配を廃絶すれば女性も解放されるという「社会主義婦人解放論」を厳しく批判,また家族の中の性支配に抗議の声を上げた「ラディカル・フェミニズム」の限界も示す.そして両者が問題とする「資本制」と「家父長制」,つまりは「市場」と「家族」とが重なり合った構造こそが,近代産業社会に固有の女性差別の根源であることを鋭く指摘した.本書は,マルクス主義フェミニズムという新たな立場から,理論と分析の両面において,近代産業社会にグサリとメスを入れた画期的な本だったのだ.

  当然,社会主義理論により女性解放をめざす立場や,自由主義的な立場から女性解放を考える立場からは,厳しい反論が寄せられた.そのことは,本書の中でも,新たに加えられた自著解題でも触れられている.

  しかし,近代産業社会において,なぜ女性は労働市場から締め出され,出産・育児・家事・介護・看取りにかかわる再生産労働を無償で負わされているのか,という問いは,この本により一つの解答を得ることになった.そしてその後の多くの議論やフェミニズムの理論的発展が,いま,例えば介護を社会で担う介護保険につながる潮流を生んでいくと思えば,学問とは何と刺激的な営みなのだろうと思わずにはいられない.


市場と家族の関係

その『家父長制と資本制』の中で特に興味深く、そして今回紹介したいのが、「市場」と「家族」の関係性についての議論です。

ラディカル・フェミニストは「市場」の外部に、「家族」という社会領域を発見した。(中略)

彼らが「市場」の外部に発見した二つの領域とは「自然」と「家族」であった。「市場」は閉鎖系ではなくその実、開放系だったにもかかわらず、たとえば近代経済学は、「市場」内部を閉鎖系としてその中の交換ゲームを扱うというやり方をとってきた。だが、システムには必ずそれに関与する外部「環境」がある。「市場」というシステムもまた「自然」「家族」という二つの「環境」から、ヒトとモノとをそれぞれインプット・アウトプットしていたのである。「自然」という環境からは、「市場」はエネルギーと資源をインプットし、代わりに産業廃棄物をアウトプットする。この「自然(という)環境」は、ブラックボックスのように見えない存在だった。長い間「自然環境」にとってはエネルギー・資源も無尽蔵なら、汚水やガスのような廃棄物の環境自浄力も無限と思われてきた。(中略)

フェミニストが「市場」の外側に発見した「家族」という環境も、「自然」と驚くべき類似性を持っている。「自然」と「市場」との関係および「家族」と「市場」との関係の間には、論理的なパラレリズムがある。「家族」は第一に、性という「人間の自然」にもとづいている。「家族」という領域から「市場」は、ヒトという資源を労働力としてインプットし、逆に労働力として使いものにならなくなった老人、病人、障害者を「産業廃棄物」としてアウトプットする。ヒトが、「市場」にとって労働力資源としか見なされないところでは、「市場」にとって意味のあるヒトとは、健康で一人前の成人男子のことだけとなる。

家父長制と資本制
「家父長制と資本制」より


ポイントは
・「市場」は閉鎖系ではなく、「自然」という外部環境から、資源やエネルギーをインプットして、産業廃棄物をアウトプットしている
・同じように、「市場」は「家族」という外部環境から労働力をインプットしていて、労働市場の枠組みに収まらない存在(老人/病人/障がい者)をアウトプットしている
・その「家族」という環境を担ってきた(担わされてきた)のが女性

現代社会の課題

高度経済成長期からの名残でしょうか、日本の労働は今でも、冒頭で紹介したツイートにあるように『家にサポートしてくれる人がいる』ことを前提とした構造となっています。

自然環境が限界を迎えているように。
人口が減少し、多様性が求められるなか、市場の外部にある『家族』という存在に目を向けず、労働力をインプットし続けることはもはや限界なのです。

女性だけでなく男性も、そして社会自体も、このシステムでは無理が生じている。この事実を認識する必要があります。


新しいビジネスと社会運動

最後に。現代は、社会が大きく変化し、これまでのシステムがうまく機能しなくなってきている時代です。そういった時代のなかで、社会を変革していくビジネスが多く生まれています。

そこに切り込んでいっているのが、山口周さんの書籍『クリティカル・ビジネス・パラダイム』

気が付いたら私も、このパラダイムの上にいました。

今回はマルクス主義フェミニズムを引用させてもらいましたが、引き続き様々な視点から、社会や組織構造の研究をし、これからの時代に必要とされる事業を創っていきたいと思います。では。



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