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関係を記述すること

こんにちは不二です。

最近Xで写真の投稿だけでなくテキスト発信もしたいなと思っているのですが、言葉というものは難しく、写真とはまた別の意味で自分のスタンスやしっくりくる・こないを問われるなと感じています。

とくに写真関連の話題についての多少深いコメントや持論を展開しようとすると、「なんか違うな」と思うことが多く、違和感を抱えたまま発信することの気持ち悪さを忌避して踏みとどまることになりがちです。

今日はそんな迷いのなかでふと思いついた、自分にとって心地のいい発信スタイルがどんなものなのかについて整理してみたいと思います。

Xには「意見」が多い

Xにおけるテキスト発信には「Aとは〇〇である」という形式が多いように感じます。

例としては「いい写真とは〇〇な写真である」とか、最近流行った「センスとは〇〇のことである」のようなものが挙げられます。これらは「いい写真」とか「センス」といった、みんなが気になってはいるけど今ひとつよくわかっていない対象について、その本質を言い当てたりわかりやすい定義を与えたりする発信だと言えます。こういう発信のことをここでは「意見」と呼びたいと思います。

「意見」には対象の定義や本質を言い当てるものだけではなく、「Aは〇〇すべき / べきでない」といった、個人の行動や集団のあり方を設定したり制限したりするものも含まれます。「猛暑の撮影中カメラマンはモデルさんに気を遣うべき」とか「生命を冒涜するような作品は創ったり発表したりすべきでない」とかが例として浮かびます。文面として「べき」という言葉が使われていなくても、「〜してほしい / しないでほしい」といった願望の形で、自分の中の規範を表明するパターンもあるでしょう。こういう発言もここでは「意見」として広く捉えたいと思います。

「意見」の特徴は、結論とか帰結をメインに提示するところにあります。かたちは様々ですが、それらはシンプルな結論を提示することにより、事物や状況に対して確定的な地位を与える行為であったり、与えたいという欲望の表れだったりする点において共通します。そしてごく個人的な趣味の問題ですが、僕は「意見」というものが言うのも聞くのもあまり好きではありません。「意見」と無縁で生きているわけではないし、そんなことは不可能だと思いますが、実際のところ止むを得ずというか、なんか窮屈で嫌だなと思いながら関わっているような感覚があります。

じゃあどんなタイプの発信だったらいいのか、というのを次に考えていきたいと思います。

「意見」よりも「分析」が好き

僕は「意見」よりも「分析」の方が好きです。「分析」とは結論や帰結より、その背後にある問いや問題に着目するタイプの発信です。

例えば「いい写真とは〇〇である」と言い切ってしまうのではなく、「いい写真とはどんな写真だろうか?」という問いの形に変換し、「いい写真」の条件を仮説的に洗い出していく方法が考えられます。たんに断定から問題提起へと言い方を変えただけではありますが、異論の余地や発展の可能性を認めている点で、ずいぶん進歩しているとは言えるでしょう。

しかしその一方、こうした「分析」には未だ「意見」の影がチラついているように感じます。なぜなら「いい写真とはどんな写真だろうか? 条件としてはA、B、Cが考えられる……」などと思慮深げに書いてみたところで、結局は「いい写真とは条件A、B、Cのいずれかあるいはすべてを満たす写真である」という「意見」が容易に構成されてしまうからです。

では「意見」の呪縛から逃れた「分析」とはどのようなものでしょうか。これについて僕は現時点で、思考を現実に沿わせることで実践できるのではないかと考えています。

例えば人は「いい写真」というものを考えだそうとしますが、現実に即して言えば、在るのはただ実際に写真を撮るという行為、そして撮られた写真だけです。前者は「いい / 悪い」あるいは「優れている / 劣っている」など、抽象的な二項対立にしたがった単なる思考の産物にすぎません。それに対し後者は、写真を撮る者が経験する多様な要素(被写体、ロケーション、光、撮影者の記憶や内面、機材、写真業界やSNSのトレンドなど)によって構成される、現実的なプロセスです。「分析」は、「いい写真 / 悪い写真」という対立軸のもとに写真や写真行為をむやみに一般化することなく、現に経験される「写真を撮る行為」や「実際に撮られた写真」そのもののありようを捉えます

要するに、「いい / 悪い」「優れている / 劣っている」「〇〇すべき」といった枠組みや先入見を取っ払って、自身が経験したものの複雑な要素の絡み合いを虚心坦懐に観察し、記述する。これが僕が考える「分析」というものの概要です。

「分析」は対立や固定観念に縛られた「意見」と違い自由だし、ただ現にそうあるものを記述していくだけなので、似たようなテーマでも記述の内容は時と場合により異なりうるという変化可能性に開かれています。また、何かを一般的な尺度において断定するということがないため、他者を否定したり争いごとを招いたりする可能性が低いというメリットもあります。これらが、僕が「意見」より「分析」を好む大まかな理由です。

僕は過去に、このタイプの記事を二つほど書いたことがあります。一つは、渋谷で理想の桜写真が撮れるまでの思考を記録したもの、そしてもう一つが、情報量の多い渋谷という街でのスナップをサーフィンに喩え、写真を撮るという経験がいかなるものなのか描写を試みたものです。どちらも僕自身の経験に根ざしており、物事に一般的な尺度から白黒つけるのではなく、個人の視点から現実の諸要素をいくぶん曖昧なかたちで抽出しているという点で共通しています。もしご興味があれば読んでみてください。


「関係を記述する」という方法

残念ながら、SNSで拡散されやすいのは圧倒的に「意見」の方だと思います。やはり何かを言い切ることや白黒つける発言は、多くの人に「自分の話だ」と思わせ賞賛や反発を招くからでしょう。炎上した発言に対して「主語がデカすぎる」などとよく言いますが、「いい / 悪い」「正しい / 間違っている」といった枠組みに縛られている限り、条件や留保をつけて多少主語を小さくしたところで大した違いはないと僕は思います。

一方、「分析」は発信者の経験に根ざしたものであるため、曖昧さが残り、結論めいたものが受け取れないことも多いです。もちろん結論なんかなくたって面白いものは面白いですが、「面白い」だけを武器に文章で戦っていくのはよほどセンスがなければ難しいでしょう。だから文章のセンスがないけど文章で伸ばしたいという人は、白か黒かの立ち位置を決め、ポジションごとに支えられた「正しい」を武器に戦おうとするのではないかと思います。では、そんな両極端の間を行くような発信スタイルはないものでしょうか。なにかにつけ「正しさ」を標榜することなく、かといってずば抜けたセンスがなくとも自分の経験をみんなに還元できるような発信……。僕は現時点で、それは「関係を記述すること」なのではないかと思っています。

関係を記述するとは、出来事から二つの要素を抽出し、それらがどのように関係し合ってその出来事を成立させているかを記述することです。例えば、里帰りした人が地元の風景を写真に収め、エッセイを書いたとします。このときエッセイは撮影のときに感じたことと、撮影者がもつ記憶がメインの話題になるでしょう。ここから、「風景を五感で感じること」「撮影者の持つ記憶」という二つの要素を抽出することができます。これらが「写真を撮る」という出来事の中でどのように関係しているかを記述することは、単に個人の経験をエッセイとして書くこととは違い、経験それ自体を共有していない他者へと開かれています。もちろん、エッセイにはエッセイの価値や面白さがありますが、「先日地元の〇〇に帰り、〜〜で写真を撮りました」といった経緯の説明や描写を省けるという点で、関係の記述は発信として効率的だと言えるでしょう。

また関係の記述には、言い切りや「べき論」の圧を逃れられるというメリットもあります。例えば、「ポートレートカメラマンはコミュ力を鍛えるべき」という「意見」があったとします。しかしポートレートという営みにはさまざまなフェーズが存在し、各フェーズにおいて求められるコミュニケーションの内容にも差があります(例えば一箇所で絵を追い込んでいくときの声かけと、スポットを移動する間の会話とではコミュニケーションの役割がまったく異なります)。したがって撮影とコミュニケーションがどのような関係にあるのか、すなわち人物を撮る一連のプロセスにおいてコミュニケーションというものがどのように機能しているのかを詳しく記述することは、コミュ力の「ある / ない」といった二元論にとらわれず、撮る人と撮られる人の間にいかなる心理的な動きが存在するのか、そしてそれに対していかなる言葉がけやリアクションがありうるのかを考えることを可能にします。つまり関係の記述は物事の定義や規範をただ投げつけるのではなく、そこにどのように到達するかを示すことができる点で、圧が抑えられるし、なにより実践的だと言えます。

関係を記述する具体的な方法

実は昨日、Xで僕はこんな投稿をしました。

ここで僕がしているのは、「どのようにポートレートの組み写真を構成し、自分なりの個性や世界観を出すか」という話です。「組み写真で個性を出しましょう」とか、「物語性のある写真を撮りましょう」といった「意見」はよく見ますが、それをどのようにして行うのか / 行ったのかという「分析」はあまり見ない印象です。そこで僕は自分の経験を少し一般的な形にしつつ、過度にノウハウ感が出ないよう、思いつきみたいな雰囲気にして書いてみたのです(反応は思ったより来ました)。

ではこの投稿で抽出された二つの要素は何と何でしょうか。それは言うまでもなく、「写真を組むこと」と「物語性を出すこと」です。「写真を組んで物語性を出すべき」という「意見」には、この二つにどのような繋がりがあるのかという視点が欠けていました。そこでこの命題を二つの要素に分解し、関係を「分析」したのです。さっき挙げたポートレートとコミュニケーションの問題も、「ポートレートが上手くなりたければコミュ力を鍛えるべき」という「意見」ではなく、「人を撮ること」と「その人とコミュニケーションを取ること」の関係を記述する「分析」にすることで、変な圧力をかけずに自分なりの考えを書くことができるのではないかと思います。このように、世にある「意見」を要素に分解してその関係を記述することが、「分析」を発信として自由に楽しく継続していく方法と言えるかもしれません。

おわりに

最後に余談ですが、先ほどリンクを貼った僕のポストでは「組んだ写真同士の関係」という視点を提示しました。つまり「写真を組むこと」と「物語性を出すこと」の間には、「4枚の写真同士の関係」という関係があるということです。

「関係という関係」という言い方はややこしいですが、ただの言葉遊びではありません。例えば一枚一枚の写真も、被写体と背景、あるいは被写体と撮影者といったさまざまな要素の関係によって構成されています。つまり写真同士の関係は、それら要素の関係同士の関係ということです。

このように、物事を何かと何かの関係によって捉えるやり方は、僕の世界認識の核心にあるかもしれません。もちろんこれは一つの見方であり、絶対的な正解というわけではないです。ともかく、ある物事の関係を紐解くことでそこに含まれる別の関係に辿り着き、さらにそれを紐解くことで・・・というように、まるでマトリョーシカを開いていくように入れ子状の関係たちを究明していくことができるのではないか。写真や制作、表現を軸に、そういう自由で面白い発信ができたらいいなと思っています。

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