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僕のスナップはサーフィンに似ている

たぶんあまり一般化できる話ではないのだが、僕はスナップを、「カオスに秩序をもたらす行為」として捉えている節がある。

あるいは、「カオスから秩序の生まれる瞬間に出会う行為」という感じだろうか。

渋谷に写真を撮りにいくとき、スクランブル交差点を前に呆然としてしまうことがよくある。

まず人が多く、あちこちで様々なことが行われ、ビルからは言葉やイラストや映像、音楽といった様々なメッセージが降ってくる。ましてや光の問題もあるから、情報が多いうえに変化が激しくて、なにに注目しなにを撮ったらいいのかがわからない。

この手に余る感じ、情報整理の追いつかなさがカオスである。

ひょっとしたら写真は、絵画や詩作といった創造行為より、サーフィンのようなものに近いのではないかとすら思う。サーフィンは手に余る自然、それも時事刻々と変化する「波」を相手にするから。

僕はサーフィン未経験なのでただの想像でしかないが、砂浜でいくら型通りの泳ぎ方や立ち方を練習したところで、波に乗れるようにはならないだろう。波は現実的で、常に変化する。感覚なのか慣れなのかは知らないが、とにかくその変化に身体を適合させるようコツを掴まなければ、いくら座学で泳ぎ方を学んでも、波に乗ることなどできないのではないだろうか。

いい写真が撮れるときにも、これと似たようなことが起きている気がする。

街に降りて、なんとなくシャッターを切っているうちに、その日の街の面白さみたいなものがなんとなくわかってくる。面白さに任せてシャッターを切っているうちに、本当に面白いと思う写真が何枚か撮れる。あらかじめ用意された成功法則や構図等のイメージは、座学で教わった教科書通りの泳ぎ方に近い。しかしそれらが取り逃してしまう面白さを捕まえられるのは、街のリズムみたいなものに自分を従わせることができたときだ。

写真を撮るということはそんな、常に変化する状況に自らを従わせつつ、そこから一筋の糸を摘み出すように作品の手がかりを掴む、そういうプロセスなのではないか。被写体であれ構図であれ「決定的瞬間」であれ、写真に作品としての強度を与えてくれるようななにかを。

そんなことを考えながら、カメラを手に都会を彷徨っている。



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