思考論_第一章_のコピー

3-7|個人から「関係」にシフトする【1日3時間だけ働いておだやかに暮らすための思考法】

 最後に、自分、つまりあなた自身の変化の本質について語ることとする。

 普段、「自分とは何か?」を考えている人は少ない。自分とは「個人」であり、個人とは、身体と身につけている洋服のことだと思っているだろう。洋服や身だしなみを気にすることからも、それがわかる。

 これから起こる変化とは、自分という概念の逆転現象である。

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たくさんの方に手に取っていただいた「1日3時間だけ働いておだやかに暮らすための思考法」(プレジデント社)。大反響を記念して、8/14限定で全文を公開します! 令和時代の生き方・働き方をぎゅっと凝縮した一冊です。

個人と個性は切り離される

 先に答えを書くならば、自分とは肉体でも個体でもない。人と人との間にある意識のことである。これまでは「人間」と書いて、〝人〟間であった。しかし人(個人)は主役ではなくなる。「人間」と書いて人〝間〟が正しい。人から間へのシフトである。そのため個人と個性を切り離さなければならない。個人から関係へのシフト、それこそが2021年以降の最大の変化である。順を追って説明しよう。

個性と社会性の交点を探せ

 数年前にあるバラエティ番組で若手女優が、テレビ局の照明スタッフについて「どうして照明さんになろうと思ったんだろう」とコメントしてネットで炎上したことがあった。しかし世の中の照明スタッフで「照明スタッフになるために生まれてきた」と自信を持って言える人は多くはいないはずだ。やりたくないことでもやらないといけない局面もあるだろう。

 たとえば地方に住んでいる中卒や高卒の女子が自活していかないといけないとしたら、飲食店でバイトするか、介護職につくといった選択肢くらいしかない。

 なぜこうなってしまったのかと言えば、それはお金という数字によって社会でのコミュニケーションが一元化すると、人間の個性と社会の多様性が奪われていくからだ。

 たしかに人類にとってお金は最大の発明だった。そのお金の目的は社会的コミュニケーションの徹底的な効率化であり、逆にその問題の本質は個性の喪失である。

 お金は誰でもわかるというその汎用性の強さをもって社会性を拡張した。だが人間は社会性だけでは生き残れない。お金の持つ強すぎる汎用力は、個性や心を犠牲にした。それが私たちが潜在的にお金を嫌う理由である。個性の喪失はアイデンティティの喪失につながると恐れるからだ。

 人類史を振り返れば「個性」と「社会性」という相反する特性をミックスしたからこそ生物界のトップに君臨できたとわかる。人間はイナゴの大群ではない。人間とは個性と社会性という一見相反する要素を両立させることを生存戦略とした生物なのだ。しかしお金は、個体が持つ有機的な価値を減じた。

 ではどうすれば良いのか? 答えは各人の個性の復権である。

 今、改めてモンテッソーリ教育やシュタイナー教育が流行っている。子どもがいる私の友人の多くも、少し前までは「お受験だ」と言っていたのが、こぞってモンテッソーリ教育のスクールやNPOに通わせている。個性を伸ばすことが重要だと考えているからだ。

 フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ氏やグーグルのセルゲイ・ブリン氏が幼少期にこの教育を受けたという事実からくるプロモーション効果も多少あると思うが、やはり「子どもたちには天真爛漫に好きなことをやらせたほうがいいのではないか?」という親が増えているからではないだろうか。

 モンテッソーリ教育は、単一価値観に覆われた社会で失われつつある個性を取り戻し、生物としての強みを取り戻すための反作用になっている。
 今後は教育も子どもの天才性を見抜き、伸ばすような流れに舵を切るだろう。

 ちなみに教育(エデュケーション)という言葉はラテン語の〝EDUCO〟から転化したもので、人間の内部にもともと備わっている才能を「引き出す」という意味である。しかし、私たちが受けてきた教育(ラーニング)の多くの部分は、知識の伝授に焦点が置かれており、自ら考え、答えを引き出す力を鍛えてこなかった。ただ引き出す力は鍛えれば身につくようになる。人間に本来備わっている能力を引き出すことは、生物多様性を考えれば当然のことである。

幸福の半分は天才性に気づいているかどうかで決まる

 個性は信用主義社会においては「天才性」という言葉に置き換えられる。

 私は常々、人生の幸福を決める要素の50%は自分の天才性に気づき、それを発揮しているかどうかだと思っている。残りの半分は人によっては快楽かもしれないし、安らぎかもしれないし、アドレナリンかもしれないが、少なくとも50%は「天職」に就けているかどうかだと思うのだ。

 冲方丁の『天地明察』(角川文庫)という小説がある。江戸時代前期の天文暦学者、渋川春海が数学や天文学とひたすら格闘し失敗を続けながらも、最後には暦を作るというストーリーだ。

 この小説の冒頭は、「幸福だった。」という1行から始まる。ことごとく失敗をくり返した人生だったが、幸福だったと。それは渋川春海が数学や天文学という自分の得意な世界で天才性を発揮し続けることができたからである。

 もし就職や転職を考えている人がいたら、自分が果たして何を得意としているのか、自己分析に徹底的に時間をかけるべきだ。

 私は先にも書いたように事業家として事業を興し、売却したが、事業を行うこととFXをすることはいずれも基本的にギャンブルである。でも違いはある。それは自分の天才性を含む「凹凸」という個性に着目し、多少なりとも他者よりも優位な状態で戦ったことにある。事業や仕事でも当然、運の要素は強いが、それでもやはり自分の凹凸に当てはめたほうが単純に勝率は高くなる。

 一つひとつ読み解いていけば、必ず原石はある。それを見えづらくしているのは貨幣経済やタテ社会という重石だが、すでに述べたように社会については及第点をとっておけば良い。

若いうちに様々な経験をする

 先ほどいち早く天才性に気づけと書いたが、逆に言えば自分の天才性に気づくまでは安易に社会に出てはいけない(もし安易に出てしまったら一度、社会から逃げて考えても良い)。特に日本では新卒の価値が高いので、できるだけ長く大学に留まりながら色々な経験をしたほうがいい。天才性に気づく前に社会に出てしまうと信用力を稼ぐ原資もないまま、ただただAIとロボットにこき使われるだけである。年齢は関係ない。私自身、いつだって自分はどこに取り柄があるのか、毎日探している。

 アマゾンの倉庫ではかつて商品をピッキングしていた人たちがロボットにそのポジションを奪われた。今その人たちは、自分の仕事を奪ったロボットが正しく安全に動作しているかどうかの監視をしているという。しかし当たり前だが監視はロボットの得意分野であり、近い将来、その仕事も奪われる運命にある。

 ヨーロッパやアメリカでは新卒チケットというものがないので、大学を出てから世界を旅したり、NPOなどで社会経験や実績を積んで25~28歳くらいで就職したりするパターンが一般的だ。

 一方の日本では、一括採用文化の影響で自分の天才性に気づいていないのに就職してしまい、イメージとのギャップやモチベーションの維持に苦しむ人が絶えない。

 ただ、こうした画一的な就職観はだいぶ変わりつつある。

 私の会社で働くインターンを見ても、大学を休学して海外や企業で経験を積んだり、大学院に行ったりしながら20代後半でようやくどこかに腰を据えるというケースが目立つようになっている。

 また、私の実兄が運営している日本人学生向けの海外ビジネスインターンシップ事業(武者修行プログラム)でも、在学中に海外でのビジネスを経験したいという志の高い学生が毎年1000人以上集まる。

 こうした自由度の高いキャリアの作り方も、今後は普通のことになっていく。「やりたいことがわからないならとりあえず働け」という正社員至上主義論や、「天職を探し続けても見つからない。やり続けたら天職になる」という天職昇華論は、あくまでも従来のタテ社会のロジックである。

 私は大学を卒業するまでにアルバイトを含め、20種類の仕事を経験した。工場のラインにも立ったし、引越し作業を終えた足で外資系金融のきらびやかなオフィスに出勤するようなこともあった。

 当時は自分の不遇を嘆いたものだが、そうやって10代のうちから色々なことを経験していると、自己分析が苦手な人であっても自分の向き不向きは自ずと見えてくるものだ。だから社会に出るタイミングで少なくとも自分の得意なことを活かせるだろうという確信はあった。

 60億人のワンオブゼムになるか、何かの分野のオンリーワンになるか。それを社会に出る前にある程度見極めておくことが大事である。

天才性は細部に宿る

 自分の個性(天才性)はできるだけ微細なレベルで知っておく必要がある。

「自分は電通に合っていそうだ」といった「企業レベル」の話でも当然ないし、「広告業に向いているかもしれない」といった「業種レベル」でもない。または「英会話が得意」と言った「スキルレベル」でもない。

 天才性とはもっと微細で、深いレベルの自分の強みのことである。

 たとえば接客が得意な人であっても、接客を要素分解していけば色々な強みが考えられる。

 中には相手のマイクロ・エクスプレッション(微表情)を見逃さないことに関して卓越した能力を持っている天才もいるだろう。そのような才能を持っているなら接客にこだわる必要などなく、FBI捜査官や税関職員になるという選択肢が出てきてもいいはずだ。

 このように自分の武器が微細であるほど、様々な選択肢への応用力が増す。

 私は思考力という武器を持っていて、それを活かせる領域としてM&A(企業分析)があった。周囲の人から「なぜ今はM&Aをやらないんですか?」と、さも人生の方向性を変えた人のように言われても困ってしまう。

 思考力を活かせる局面はM&A以外にいくらでもあり、投資でもいいし、研究でもいいし、起業でもいい。

 ただ、微細ということは知覚しがたいことでもある。

 それに気づく最も効果的な方法は、自信を持つことだ。「自分には絶対に何かしらの取り柄がある」と信じることができれば、短い時間でそれを見つけることができる。

 ただ、これも言うは易しで、よほどいい人たちに恵まれないと自信を持つことはなかなかできない。そうなると現実的な方法としては、周囲からのフィードバックをどれだけ受けられるかだ。あなたが普段周りからよく褒められる要素は、まぎれもなく天才性のヒントとなると言っていい。

 中でも、ジョハリの窓論が指摘するように「自分が知らない自分の姿」を知っていき、盲点の窓(blind self)を狭くしていくことで、自分の強みと弱みはより浮き彫りになっていく。

 読者の中には、この本を自分の子どもの教育指針の参考として読んでいる人もいるだろう。そうした人にはぜひ、子どもの日々の行動を注意深く観察し、できるだけ肯定的なフィードバックを与え続けてもらいたいと思う。

 たとえば子どもがダンス教室でいつも先生から褒められているとしても、「じゃあ将来はダンサーかな」とすぐに判断するのではなく、柔軟性、体幹、リズム感など、ダンスの要素を分解してみる。ダンスだけではメッシュが粗すぎるからである。その結果、子どもの天才性は表現力にあると気づいたら、それをしっかりフィードバックしてあげるのだ。

 私は子どもの頃、絵を描くことが好きだった。将来は美大に行ってデザインかアートの仕事をしたいと思っていた。自分としては絵を描くとき、線を取ることが一番得意だと思っていたのだが、ある日、父親から「お前は色使いがうまいな」と言われたことがある。「あ、そうなんだ。でもそうかもな」と思うようになって、その後は着色するときに色使いをそれまで以上に意識するようになった。数多くの色の種類を記憶し、絵の具を増やしていった。カラフルな色使いはキャンバスをやがて超え、自分が起業してはじめて作った企業の状態を可視化するサービスに反映されて評価された。

 父親がどこまで意識してその言葉をかけてくれたのかはわからない。そのフィードバックが正しかったかどうかもわからない。ただ、そうした些細な言葉がその後の私の意識の向き先を少し変えたことは事実だし、絵一つをとっても人の強みは何百個もあるということである。

 だから色々な仕事を経験するのと同じ理屈で、子どもの頃は親の先入観に囚われず、色々なことを経験させてみることが大事だと思う。そのほうが汎用的な武器を見出しやすい。

 自分には天才性などないとあきらめる人もいるだろうが、この世界にスーパーマンは存在しないし、存在してはならない。人間とは常に自分のわずかな個性を際立たせ、人と分かち合い、互いに分業することで繁栄していくことを生存戦略とした生物種だからである。お金の形態が変わろうが、お金自体がなくなろうが、それは変わらない。

 よって大切なことは「自分とは何か?」という定義を深めていくこと。そして、新たに定義した自分を広く世界と分かち合っていくこと。それはつまり、自我を弱めつつ、同時に、自分自身が外に向けてのインスピレーターたることだ。

 スペシャルな存在を目指すのではなく、ユニークな存在を目指そう。

 本当に、夢がない、やりたいことがない、何をすればいいかわからないなら、とりあえず今は宇宙飛行士を目指せばいい。もちろん冗談ではない。

 宇宙飛行士になれる条件は母国語を含めた2ヵ国語を話せること、理学部、工学部など自然科学系の大学卒業資格、自然科学系分野での実務経験(3年以上)、利他性や柔軟性といった性格の良さ、健康な心身、ユーモアがあることなど、地球上で存在するあらゆる職業の中で最もオールラウンドなスペックが求められる職業だ。しかも、2040年には宇宙飛行士になるハードルは人口の1%まで下がると予測されている。実際に宇宙飛行士になることはないかもしれないが、やりたいことが何も思いつかないなら、地球一のハイスペックを目指せば、社会がどう変化しようと必ず仕事はあるということだ。何もしないよりはよほどいい。

すべての分野で「微成長」を楽しむ

 宇宙飛行士のようなオールラウンダーは極端だとしても、あらゆる分野で微成長をしていく人生は純粋に楽しい。

 運動が得意だから運動以外のことにリミットを設けるような生き方ではなく、「何でもできる」「何でもやってみよう」という姿勢が大事である。
 たとえば本業で英語を一切使わない人が、英語を勉強することを「無駄だ」「生産性が悪い」などと批判する姿が散見されるが、それは完全にロボットの発想である。趣味として言語を習得することは自由だし、生産性という文脈でも、英語を勉強することでキャリア選択の幅も増えるだろうし、会社以外のネットワークも広がるだろうし、休日にインバウンドの旅行者向けのボランティアガイドをして日本の良さを伝えるといった形で社会に価値をもたらすこともできるだろう。

 しかも今はテクノロジーが発展したおかげで、はじめてのことでも成果が出やすい環境が増えている。外国語を習得したいならSkypeでレッスンが受けられるし、動画制作に興味があればスマホ1台で撮影から編集、公開までできるし、農業に興味があれば農家体験ツアーなどいくらでもあるし、知識を得たいならグーグルで論文も読める。

 要は最初に「やりたい」と思ったときの最初の一歩のハードルが低くなっているということだ。

 だったら興味を持ったことを片っ端からやればいいと思っている。ダイエットでも筋トレでもアラビア語でも美女・イケメン化計画でも地域復興でもMBAでも何でもいい。

 ちなみに私は40代前半だが、今、自分の健康リテラシー向上のために医学部を受験しようか、お金を介さない経済の効率性を証明するために大学院に戻って高等数学を学ぶか迷っている最中である。

 何か新しいことを学びたいと思ったときこそが勉強を始める最適なタイミングだ。特にこれからはエージレスな時代となり、「何歳だから何をしてはおかしい」といった社会通念はどんどん破壊されていく。いったん社会に出ても一つのレールに乗り続ける必要はない。人間は死ぬまで勉強。早い遅いも、勝ち負けも、成功も失敗もない。以前、「中学3年生の30%は小学4年生の算数を理解していない」という記事があったが、何の問題もない。中学3年生の授業で小学4年生の算数を教えればいい。年齢で学習項目を区切ることは、昭和の発想だ。

 しかし、すべてのことで微成長していくためには当然時間がかかる。よって時間マネジメントが必要であることは先ほど述べた通りだが、ここでもメタ思考で本質を考えると、もっと大事なことは「学び方を学ぶこと」であると気づくだろう。

 何か新しいことを習得する、もしくは実現するための「正しい学び方」とは、簡単に言えばPDCAを回す力である。PDCAは趣味でも何でも使える。「冷え取りのPDCA」でも構わない。全体像を描いたら細切れにして、解決策を推論して、少し実践してみて、うまくいったと思ったらそこをもっと掘り下げる。

 こうしたPDCAを当たり前のように回せるようになることが重要である。

天才性の拠り所となる4つの領域

 21世紀に求められるリテラシー、つまり天才性の拠り所は、4象限に分けられる。

・ロジックや構造化を司る「算数」
・自然との調和を司る「理科」
・コミュニケーションを司る「国語」
・真善美の追求や創造を司る「社会(哲学)」

 縦軸が「算数」と「理科」で、横軸は「国語」と「社会(哲学)」だ。それぞれ「天」と「地」。「愛」と「悟」とも表現できる。実際には4方向にきっぱり分かれることはなく、360度の世界である(図43)。

 この2軸の中心にいるのが自分の肉体。だからどの方向を極めるにしても、その人の稼働時間を延ばし、コンディションを高めるには健康科学が欠かせない。アスリートたちはこの肉体に徹底的に焦点を当て、その天才性を引き出している。

1 算数
「算数」の領域はわかりやすい。数学やエンジニアリング、論理性など、完全な数字の世界だ。宇宙開発やAIなどの技術的イノベーションを起こす人たちはこの領域が圧倒的に強い。

2 社会(哲学)
私が主戦場としているのが「社会(哲学)」の領域。
都心部のエリートの多くは「算数」を得意とするが(ロジックや構造化)、それだけではなく有機化と再統合という価値創造のレベルまで持っていけることが理想だ。
この領域には霊性やスピリチュアルの世界も含まれる。具体的に言えば宗教やヨガ、マインドフルネスである。アートもここに該当する。人間の理想である真善美という本質を見抜き、人間を介してそれを投象することをアートと言う。

3 理科
「理科」とは「理」の領域で、大地とともに生きていくタオイズム(道の哲学)の世界。わかりやすく言えば、映画監督の宮崎駿氏が描くナウシカのような生き方。現代では天然素材やオーガニックにこだわるロハス系の人たちや、休日にアウトドアや土いじりを楽しむ人たちのことだ。

4 国語
「国語」とは愛の世界だ。学ぶ領域としては仕事論やコミュニケーション論、コミュニティ論、デザイン思考など。職業として接客や営業などの感情労働やデザイナー、コーチ、ライターなどがいる。

 人は意識の焦点をこれら4方向に当てることで成熟していくものである。
 こうした意識論に立って天才性を改めて定義すると、ある人の天才性とは、普段は肉体(図で言うと中心)に向かいがちな意識の重力がビクともしない分野のことだ。

 そこがその人の得意分野であり、信用力の源泉になる。
「ここだったら自分は飛べる!」という領域をできるだけ早いうちに発見すること。それが今後の社会で幸せに生きていく最初の一歩となるだろう。

 幸運なことにそれにいち早く気づけたら、それを伸ばしたり、活かしたりする環境を選ぶことで成果も出せる。その結果、信用も上がるし、引く手数多になればコミュニティの鞍替えも容易にできる。楽になれるうえに、自由にもなれるのだ。

自分(私)とは何か?~個人は主役ではない~

 今までの私たちの世界観は、常に「個人」を前提にしてきた。どんな議論でも個人の成功、幸せ、権利、個人対個人の取引などが当たり前だった。

 一方で全く違う哲学観が浮上してきた。「そもそも私たちはどこにアイデンティティを置くのか」という問題である。自分とは何かという自意識が「個人」から「個性」と「個性」をつなぎ合わせた他者との「関係」に少しずつズレつつある。

 人間は物質としての生物だが、それだけをもって生命とは呼べない。関係、つまり個人と個人の間にあるものが生命である。

 たとえば親と子、恋人同士の「間」にある愛情が生命を育む。そこでは個体など意味がない。親や恋人を思い出してみよう。そこに出てくるのは相手の顔や形といった造形ではなく、その笑顔といった表情や思い出のエピソードのほうであろう。

 人は人を見ているのではない。人と人の間に紡ぎ上げた意識の通わせ合い、つまり関係、思い出を見ているのである。それこそが生命である。自分という生命を規定するのは、肉体を持つ個体ではなく、むしろドーナッツ型につながる小さな周辺のことである。それは友人であり、家族であり、社会的な立ち位置であって、そのように考えていくと、独立した個としての輪郭は少しずつぼやけていく。

 16世紀に天文学者のコペルニクスが登場するまで、1500年という長きにわたって人々は「地球の周りを太陽が動いている」と信じてきた。現代ではその説を信じる人は誰もいないが、この現代においてもほとんどすべての人が自分とは肉体とその周りの意識の一部、つまり「五感を中心としたセンサーが認識できる極めて限定的な領域」のことだと信じ切っている。これは大きな勘違いである。

 本当の自分というものは「世界」、狭義で言えば「環境」のことである。
「個人」という言葉はそもそも意識の境界を便宜的に表現したものにすぎない。すなわち住む場所や付き合う人々、もしくは部屋の状態や食するモノもすべて自分であり、すべて有機的につながっている。多くの人が「自分」だと思っているものは、その「結果」だ。

 ただ、自分という存在を社会から切り離し、矮小化してしまうのも無理はない。

 なぜなら現代の社会システムが個人とその権利を中心に設計されているからだ。所有の概念や民主主義がその典型である。そしてお金は生命というつながりと物語を漂白し、個人と個人を断絶してきた。テクノロジーやデバイスも同様だ。

 しかし、意識の焦点を広く、深く広げてみれば、世界があって自分がその一部にあるのではなく、自分が世界を創っていてたまたま一つの個体に意識を向けているというように意識を転換できるはずだ。本来の人間にはその認知能力があるはずだし、空気を読める日本人ならきっとできる。

 自分という定義をわずかでも広範囲に認知でき、「結果」としての自分を作った「原因」とのつながりを意識できたとき、変えるべきは自分ではなく環境であり、整えるべきは服ではなく部屋であり、慮るべきは自己ではなく目の前にいる他者であることに気がつくだろう。きっとあなたの人生はすべてが変わり、好転していくはずだ。

 第3章の最初にお金をテーマに取り上げたが、将来お金がない未来が訪れたなら、それは個人の境界がなくなった世界である。

 近代では個人の権利や所有を前提に私たちは生きてきたし、アイデンティティもそこにあった。しかし「関係こそが生命の本質である」と前提が変化した時代には、価値はつながりや物語そのものになる。その世界では今の貨幣のような数字で文脈を分断するお金などのツールは意味を持たず消滅する。そのときがお金という概念のなくなる日である。

個体から生命へ

 第3章はこれから、いやすでに起こっていることの変化の本質について述べた。

 結局のところ、すべての分野でパラダイムがひっくり返ることになる。それは一言で言えば、無機的な世界から生命という有機的本質に回帰することである。

 個体と個体の間に漂う生命が主役になる。その主役たる生命を害するものは徐々に排除されていく。

お金(数字)から信用への回帰、文脈保全のコミュニケーションツールである記帳や時間主義経済の台頭、画一的な価値観を押し付ける強い同調圧力を持つ社会の崩壊と生命を育むコミュニティの台頭、経済においてはモノ・コト経済から関係経済(ピア・エコノミー)にシフトすることによって、仕事の性質は人の機微を感じること、人と人の関係を育むための機会やツールの創造へと変わる。人は濃厚な意識の交流こそ健康と幸福の源泉であると再発見するようになるだろう。

 2020年からの変化の本質で見えてくることは、孤独という最大の災害をなくすための「所属の人権化」、マルチコミュニティや関係経済(ピア経済)が中心になったときに価値観で人がつながっていくという「意識の階層化」、そして再三書いてきた「個人の崩壊」、最後には自分という概念が世界やコミュニティに溶け去っていくという「自己の拡張」であろう(図44)。

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