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学習理論備忘録(5) なぜ『恐怖症』をそんなに嫌うのか

(今回は進化心理学的な話になってしまった)


個体の反応の仕方には個性がある

食べ物のにおいという刺激に対してよだれが出るのは。生まれつき備わっている反応なので「無条件反応」と呼ばれる。

この無条件反応でさえ、個体によって異なる。恐怖症を例にあげて話そう。


恐怖症という病気がある。

なにかを特別に恐怖する。その程度がひどくて困ってしまう。


これも刺激に対する恐怖という反応である。

恐怖「症」と呼ぶくらいだから、だれもがそれを恐怖しているわけではない、あるいはそこまでひどく恐怖しないのが普通だ、という意味を含んでいる。

世の中にはいろんな恐怖症があって、虫全般が怖いわけじゃないのにクモだけはだめな人とか、なぜかガスタンクが怖い人とか、血が怖くて倒れてしまう人とかがいる。それぞれ「アラクノフォビア」「メガロフォビア(巨大建造物恐怖症)」「血液外傷恐怖」などとわざわざ名前が決まっていることから分かるように、よく知られているものなのである。

いずれも、抱くのが並みの恐怖感ではないから、あるいはその恐怖のせいで激しく振る舞うから、恐怖症なのである。「ああ、わかる。たしかに大きいクモとかってなんかちょっとキモいよねえ。そんなに見かけないけど」などと言っていられるような人は決してクモ恐怖症ではない。

これは人類の進化と関係があると考えて良さそうである。その証拠に、いくつかの恐怖症は遺伝することが知られている。

進化論の考えかたを理解していれば、クモ恐怖症患者は毒グモに苦しめられた祖先の中の生き残りの末裔だとわかるし(毒グモで死んだ人の子孫という意味ではない。クモを恐れる形質をたまたま獲得したが故に死なずに死んだ者の子孫だということだ。)、メガロフォビアは巨大生物の危機の生き残りであろう。血液外傷恐怖の患者は、刀剣で戦争をした国に多いことが分かっている。

無論この手の理屈は安易な結論をしやすいので注意が必要だが、これについては概ねまちがってはいまい。


さて過去にはそのような事情があってとても役に立っていた恐怖症だが、現代においてそういったご先祖様の形見は負の遺産である。

まずそれらの恐怖の対象が、現在ではほとんどない。似たようなものがあっても、それらは危険ではない。なのに過度にそれを避けることにエネルギーを使ってしまう。無駄に緊張して疲れ切ってしまう。なにより辛い。

加えて、周りの反応が問題になる。クモという刺激に個体が「悲鳴」という反応をした場合、その個体には「悲鳴」は反応であっても、近くにいるべつの個体(家族とかお友達)にとっては刺激である。この刺激に対してまた反応があり、それはまただれかの(最初の怖がった人でも、さらにべつの人でもよい)刺激となる。この連鎖で世の中は動くが、ここに「問題」が生まれる。

恐怖症の人に出会うと、たいていの人はその怖がり様のひどさに面食らう。医学の世界では知られている恐怖症ではあるが(ただし、医者が知っているという意味ではない。むしろ精神科医であってもまったく詳しくないのが大半であろう)、マイノリティーであり、ありふれてはいない。

恐怖症の患者は、周りの理解を得ない。車椅子にでも乗っていれば優しくされる可能性はまだ高い。障がいを持つ人にまだまだ厳しい社会ではあるとはいえ、比較で言うなら、精神的な障がいよりは身体的な障がいのほうがまだ同情を買う。足に不自由のない者が、障がいを持った知人の車椅子を借りて買い物に行ってみたら、いつもはそんなことはないのにおまけをしてもらえた、と言っていた。


恐怖症は生まれつきのものもあるが、後から学習されるものもあり得る。動物には無条件反応だけでなく、条件反応という学習される反応もあるからだ。「まんじゅう恐怖症」は、さすがにカプラン精神医学にも載っていない。

どうあれ人は、精神的な疾患に、誤った帰属をしやすい。それがいかに誤っているかを考えるとき、遺伝的に決まっている病気をあげるのは便利だ。ある種「理由」などないからだ。そう生まれついているというだけだから、それ以外の「解釈」はすべてまちがいだ。


「根性がないから」「派手に騒ぎすぎ」「アピールでしかない」「育てかたが悪かった」「愛着の問題」「発達に課題」・・

素朴心理学がいかに残酷に人を苦しめるか。車椅子に乗る者に向かって同様のことを言ったら世間ではどういう扱いを受けるか考えてみるとよいのではないだろうか。


それでも恐怖症は少し嫌われすぎである。そこでもういちど全体を俯瞰しなおしてみる。

あれ?これはもしかすると、それを嫌うという反応が、すでに遺伝で規定されている可能性も考えたほうがよいのか?と。


ここからは誤った帰属になる可能性大の考察である。注意は必要だ。権威をもって述べていいのは進化心理学者だけであるということは踏まえた上で、データのない中考察を続ける。

もしかしたら我々には、面倒な振る舞いを嫌うという形質があるのではないだろうか?そういう振る舞いをする連中と関わると、己の生命が危機にさらされる、あるいは損をする、という利己的な戦略である。行動経済学的で説明されよう。

中でも恐怖症は、たくさんの人が死んでいくような危機的な状況の中で、己だけは危険を避けるということを固く貫く、いわば卑怯な戦略である。ちびまるこちゃんの藤木君は、本当は単に怖がりなだけかもしれないが、「卑怯な藤木」と言われて、まったく尊敬されないキャラクターとなっている。


極度の怖がりが人類を生きながらえさせた。あるいは今後生きながらえさせる。ただし、そういう戦略がよい場合もある、というだけで、皆が同じ戦略は取るようにはできていない。

自分だけは生き残ろうとする傾向は、程度の差があるだけでだれもが持っている。平和な世の中では「自分だけ」はあまり有効な戦略ではない。その程度の差が露呈することは、多少はあって様々なトラブルにもなるが、さほどではない。有事にはそれが見るに忍びないひどいものとなる。


多様性を受け入れる「ダイバーシティ」とやらが試されるのは、戦略の違いのある人々が、共に暮らしていこうとする点においてである。「すでに持っている反応パターン」が異なる者同士は、ただ集まるだけではうまくいくわけがない。そこにだれがどういう反応パターンを「新たに」学習したら全体としてなんとかやっていけるようになるか、が問われている、と言える。


Ver 1.0 2020/7/19



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