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学習理論備忘録(35) 『シン・行動主義』


ここまで潜在制止の話をしてきた(*1)。そのまとめをする。

(*1)ここで、残ったままになっていた私の疑問について触れておこう。

歯科医が、子供に「怖がろうが泣こうが、さっさと治療を終わらせたほうがてっとり早い」と思ってなにも言わずにいきなり治療をしてしまうとする。たしかに早く終われるかもしれないが、その子には二度と受診してもらえなくなるだろう。それに対して“Tell Show Do〈TSD〉法”では、なにをやるか伝え、道具などを見せて、その後にやってみせる。
これは系統的脱感作に分類されているが、その分類は適切か?というのが気になっていた。原井先生に聞いてみたところ、違うであろうということであった。

そもそもTSD法は恐怖を軽減してはいるが、系統的脱感作でなされる拮抗条件づけ、すなわち恐怖と相容れない反応を起こす過程がない。
ウォルピが考えた系統的脱感作では、怖いものをイメージするとか、怖いものに似たものに触れるとか、少しずつ曝される恐怖の段階を上げていくのであるが、それらの恐怖に曝される際筋弛緩法などを用いてリラグゼーションもする、というのがもっとも良く知られているやりかたである。
実はリラグゼーションだけではなくて、不安以外の条件反応を作り出すなら何でも良いようで、ウォルピは患者に自己主張をさせて怒りを出させたり、性的なものを思い浮かべさせてエロい気持ちにさせるということもやっていたそうだ。

系統的脱感作と似たような言葉に"エクスポージャー"(暴露療法)というのがある。系統的脱感作は、リラクゼーションなしの単純な恐怖への暴露をする技法へと整理され、アイザック・マークスという人がこの言葉を使った。
だから系統的脱感作とは、暴露を用いるやりかたのひとつということになる。暴露だけするのでは系統的脱感作とは呼べない。

歯科の現場で"行動変容法”と呼ばれている一群の技法の説明において、行動分析学の知識が正しく反映されないことがある。
応用される理論というのは、そうなりがちである。とくに学習理論や行動分析学はよく応用される一方、言葉の誤用、概念の思い違いが非常に多く生じるものでもある。摂食障害でそこそこ有名なとある医師も「行動療法」の名で応用行動分析による治療を行なっているが、用語の使いかたがかなりめちゃくちゃなまま、独自の治療を展開していた。

もっと悪名(?)が高く、高すぎてもはや高名と言ってもいいほどなので名前も挙げるが、下総病院の平井先生の提唱する条件反射制御法というものがある。
条件反射制御法は、薬物使用障害者の団体であるダルクでも取り入れられたり、NHKでも取り上げられたりして今や有名だ。潜在制止の話などとも合致する理論である。刺激に対して制止を条件づけるのだ。
ただ、平井先生は公開ディスカッションで原井先生に、残念ながら平井先生は最近の本に書かれている専門用語を使っていない、とあれこれ指摘されていた。平井先生は平気でブルーバックスを引用する。

ところが、先に挙げた医師も平井先生も腕がいい。本当に役に立つことをやっている。条件反射制御法は、薬物依存や性犯罪まで止められるかもしれないと期待されている。それは他の人にはできなかった偉業である。なら学問的正確さは多少いい加減でもいいのか?みなさんはどう思うだろう?
「よくない」と言う人も、自分が治療してもらうことを考えた場合はどうだろう?


子供を、歯医者にかかる前に何度もつれていくと、怖がらないようになるかもしれない。あるいは動画を観せるだけでも、同じようなことができるかもしれない。

だがまだまだ限局性恐怖症の「予防」について、確立された知見はなく、不明なままのことが多い。

ヘビ恐怖の予防にも、「縦縞のヘビ」で予備暴露した場合、「横縞のヘビ」への恐怖は予防できるのか分からない。どこまでを「同じ刺激」と括って良いのかは不明である。

潜在制止にはさまざまな可能性があるだけに、臨床現場でそれほど知られておらず関心をも持たれていないというのは残念である。「もっと実験をして知見を増やし、エビデンスを増やそう!」と言いたいが、言っている自分が研究に及び腰である。



そんなもやもやした思いを残しながらこの章は終わって、次の章に入る。第7章、FEAR CONDITIONING AND AVOIDANCE(恐怖条件づけと回避)である。

題名通り、恐怖条件づけに関する話である。これは多くの精神疾患にも関わるテーマである。なぜならば、ほとんどの精神疾患において「回避」、すなわち「嫌なことを避ける」ということが苦しみの原因、諸悪の根源になっているからだ。


さて、パブロフ型条件づけといえば、本稿ではさや香の登場である。彼女がボタンを押すとあなたには電気ショックが流れる。

これが続き、「ボタンを押すのを観る」と「恐怖」を抱き(*2)、たまたま「身につけた装置を外す」と電気が流れないということがあった。

すると


「ボタンを押すのを観る」 →  「恐怖」を抱く →  「電気ショックを流す装置を外す」


という流れができるようになる。「ボタン押し恐怖症」の誕生である。


この説明で良いだろうか?うん。なんということもなく受け入れてしまう。


だがスキナーらの新行動主義者(*3)が、装置を外すことを動機づけるものとして「恐怖」などというものを想定したバブロフたちの説明(「二過程説」と言う)を批判した。

(*2)人によっては「興奮」するかもしれないが、そういうことを言うとややこしくなるので今はそれはナシ。

(*3)ちなみに彼らによれば、パブロフたちは旧行動主義ということになる。


まず「恐怖」という言葉からいちゃもんがついた。なんか曖昧だからである。科学者はそういうのを気持ち悪がる。「こんな曖昧な言葉では測定ができなくて使いものにならん!」ということで、きちんと定義できるものだけを扱う。


次は、「恐怖症はトラウマ経験なしにも起こる」という批判だ。

ヒッチコックの『めまい』という映画では、主人公が高所恐怖症になる瞬間のエピソードが冒頭に描かれていた。物語の中の恐怖症にはたいていもっともらしい理由がある(*4)。だが現実は、いつ高い所が怖くなったか分からないことが多いどころか、それが生まれつきなことさえある。パブロフ型条件づけでは説明しがたい。

(*4)それでも物語では、理由なき症状だの、たまたま生まれつきだのといったものは受け入れられがたいようだ。ついには「前世で人を突き落としたから」などという理由まで用意される。


さらに、パブロフ型条件づけによって恐怖症が成立するという説明を否定する根拠として、1940年にあったナチスによるロンドンの空襲のことも挙げられた。このような命に関わるような恐ろしい出来事があっても、飛行機恐怖症や爆弾恐怖症にはならない人が多かったのだ。



さや香(じゃなくてもいいんだが)が、ボタンを押すとあなたが「ギャー!」と叫んでガタガタ震える。

するとそれを見ていた男もまた、ボタンを押すのを観るだけでガタガタ震えるようになる。そういうことがよくあるというのは、社会学習理論が明らかにしているところである。恐怖は観察によっても学習できるのだ。そう、恐怖は伝染する。これを「代理学習」と言う。

やはりこれもパブロフ型条件づけではない。


スキナー一派であるスキナリアンたちは、行動の生起頻度を決めるものは、行動の「結果」しかないと考える。パブロビアンのように、心の中に「恐怖」なる動機づけがあるとは考えない。


それを見事に踏まえている現象が、シドマン型回避だ。


恐怖症を説明するのに「恐怖」という言葉が必要ないだって?じゃあ「さや香にボタンが押されつづけると装置を外すようになる」ということについてはどう説明できるというのだろう?

大丈夫。バブロフ型条件づけとは別の解釈が見事にできる。


電気ショックは、おしおき(*5)に使える(=電気ショックという結果は行動の生起頻度を下げる)。あえて悪くもなんともない行動へのおしおきとして考えてみよう。赤いボタンを押すと電気ショックが流れるというような場合、大抵の人は赤いボタンを押さなくなるだろう。これは電気ショックがのために利用されているということになる。

逆に最初から電気ショックを与えられている場合、電気ショックを止める行動をするようになる。青いボタンを押したら流れていた電流が止まった、という場合、また電気ショックがあったときは青いボタンを押すようになるだろう(*6)。


上のさや香の例も同様である。専門的に言えば、装置を外せば、電気ショックを受ける「確率の低下」が起こる(ゼロになる)。


「『行動の生起頻度を下げるもの(嫌子)の剥奪』という結果を得ることになる行動は生起頻度が増える」(*7)


という説明なのである。


(*5)人によっては「ごほうび」になってもっとボタンを押すかもしれないが・・・もうイイでしょ。そういうの。
(ちなみに吟遊は、あらゆる変態・フェチを行動分析学で解説する書籍の構想がある。精神分析で物事を説明する書籍が世の中に溢れているが、行動分析の本は少ない。同じ「分析」でもずいぶんな格差だ。だがエロスは行動の原理でこそ見事に説明できる。もっともそんな本の需要は、少なくとも学問的にはないかもしれないが)

(*6)これはネガティブフィードバックと呼ばれるものである。

(*7)ざっくり言えば(巨視的に言えば)、これは「嫌子消失によるネガティブフィードバック」ということでいい。
ただ細かいことを言うと、「嫌子出現阻止による強化」であり、上記の説明とは分けて考えるべきものであろう。




「え?なんかまどろっこしい説明だなあ。最初の説明となにが違うの?」


と思われたかもしれない。たしかに理解は難しいかもしれないが、この「行動の生起頻度を決めるのは行動の結果だけである」説(「オペラント条件づけ説」とでも言おうか)なら、「恐怖」という言葉を排除して回避行動が説明できていることに注意してもらいたい。

たしかに、上記のような状況に慣れてしまえば、


「ああ、装置を外せばいいのね。はいはい」


なんて冷静な感じで装置を外すことも考えられる。これだって立派な回避だ。「恐怖」なんてどこにもない。これがシドマン型回避である。


「ボタンが押される = いずれ電気ショックが流れる」 →  「装置を外す」 →  「電気ショックが流れない」 




また別の批判として、動物の回避反応は動物ごとに特有であり、それによって恐怖やら刺激やらが回避できるという意義はあまりないという指摘もされた。


とにかく、1970年代に一世風靡していたパブロフ型条件づけによる神経症の説明は、分が悪くなったのだ。

(つづく)


Ver 1.0 2021/5/8


学習理論備忘録(34)はこちら。



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