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福祉と援助の備忘録(26) 『障がいを持つ人への「合理的配慮」は、神経発達症の労働者にはなかなかなされないという話』

職場でうまく適応できなくて悩んでいる神経発達症者への、障害者雇用促進法36条の3に定められる「合理的配慮」の話である。


障害者雇用促進法は2018年の改正以後、障がいを持った労働者の労働環境を整えるために『合理的配慮』というものを事業主が提供することを義務づけている。対象には身体・知的障害者だけでなく、「発達障害を含む精神障害、その他の心身の機能の障害により、長期にわたり職業生活に相当の制限を受ける者、あるいは職業生活を営むのが著しく困難な者」も入る。

法が施行されそれなりの期間が経過したが、実際のところ現場にどれほどの影響を与えているだろう。事業主は労働者への配慮が果てしなく増えたと、重い気持ちでいるかもしれない。ただ、ストレスチェックにでもひっかかった人が、精神科の医者から意見書をもらってきたら、苦手なことをせずに済むように異動させてもらえた、なんて話はそんなには聞かれない。

さらに精神科領域の障がいでも、「うつ病」は休ませるべき病気としての市民権を得たが、発達障害についてはうつ病よりはるかに正体が分かりかね、なにをどう合理的に配慮したらよいかと、事業者が戸惑いそうだ。そもそも量的な差異であるから、発達障害の人は、まあ「ふつう」である。だけど少し困った社員として扱われることが多いし、本人も「困っている」と言う。

発達障害の人が職場で困った状況に至るまでのパターンは、休ませることでどうにかなるものではない。中等度以上の障がいであれば、職場で適応するためには環境調整が欠かせず、それには職場の上司こそが知恵を出し、監督責任を果たす必要がある。

実はその環境調整とは、近くに人がいると生産性が極端に落ちる人に対してなら、「他の人と距離を置く」「衝立の設置」だけのことかもしれない。そういう具体的な指示をしない医者が多いのも悪いのかもしれないが、仮に言ったとしてもこの「ささやかな」配慮、まずなされない。

あれ? 同じ対応が、例の感染症の対策ではなされていなかったっけ? 身体疾患への配慮・衛生管理はすぐに過剰なまでになされるのに、精神科的な配慮はそうではないようだ。


要は職場では、「常識的」な対応しかなされないのだ。医者がADHDの患者への合理的配慮として「電話対応の時間と書類仕事の時間は別に分けるように」などと職場に求めても、「先生、そりゃ非常識だ。みんなはちゃんとやっているんだから特別扱いはできない」と断られる。合理的配慮は先送りされ、すると患者は本格的な抑うつをきたし、適応障害となり休職に至る。

「そういう社会では休むのが現実的か。それでもできればラッキー」という結論にももっていけるのだが、今日はそういう話にはしない。これは、休職に追いやらずに済ます方法があるのに、発達障害の人にはそれがなされないという問題提起なのである。職場の生産性をあげるための合理的な努力の話だとも言える。それをしない管理者の怠惰を問題にしているのである。


ただ医者は、職場にそう強く言ってもいけないことになっている。合理的配慮は、職場ができる範囲でする、と厚労省が定めているからだ。ただ職場が「配慮しうる範囲を越える」と配慮を拒むとき、それが「常識的にはできない」というだけでは、多数派の「常識」に苦しめられている発達症の人々は永遠に浮かばれまい。それこそが多様性の排除なのである。


そもそもだが、職場での配慮といった話に弱い、もしくは扱わない精神科医が多いという問題もあるかもしれない。だが診察室にこもる医者が労働の現場を知らないのは当然で、具体的な配慮をどうするという話は産業医に、それが無理なら(というかだいたい無理なんだ)その患者職員よりは給料を多くもらっている上司に知恵を絞ってもらうというのが、筋であろう。



ここでついでに、「常識」の持つ問題を、身体・知的障がいのほうにも広げて話しておきたい。

歩けずに車椅子になった人を、積極的に営業の仕事につける職場がない。知的障害の人を窓口に出す職場も聞いたことがない。これは労働者に対して、「合理的配慮」というものを見事にやっているのであろうか? 身体・知的障がいは配慮がされていますから、精神障がいへ配慮のもう一息ですね、という話なのであろうか?


知的障害の労働者は窓口に立つことができないのか? もちろん会話はスムーズにいかないことも多いかもしれない。それでも職場がフォローして、なんとか窓口業務を応援することだってできるはずだ。

車椅子の人が営業に出るのは? もちろん可能だ。だれかが車を運転すればいいし、障がい者用の自動車もある。得意先にも配慮を求めることだってできるだろう。だがそんなことをする職場はない。


こうして諸悪の根源としての「常識」が浮かび上がってくる。常識こそが「偏見」であったのだ。ならば常識こそが崩すべきものである。「常識的にできない」は、「当社は差別・偏見を認め、いやむしろ重視しておりますので、合理的配慮なんて非常識なことはしたくありません」と言っていたということなのだ。


合理的配慮とは要するにダイバーシティを達成するために必要なものだ。ダイバーシティは「いろんな人がいるけれど、工夫していっしょに働こうね(面倒だけど)」という精神の下、一流企業が海外の人材を集め始め、無駄に意識の高い企業もその真似をしていたと聞く。
だが適応的な人々を一様に集めたダイバーシティなど、言葉の矛盾もはなはだしい。「適性検査」なる心理検査で、精神疾患にかかりそうな人をふるいにかけていた一流企業もある。もしそこが「ダイバーシティ制度を取り入よう」などと言っていたらもはや落語である。


ああ、そういえばかつては、ノーマライゼーションっていう言葉があったんだけれどねえ…


前回はこちら。


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