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福祉と援助の備忘録(25) 『家で病む人への アウトリーチ があるにはあるが』

病院だけが治療の場所ではない。いっそ病院に行かないで、医療者に来てもらうという手もある。そのような、アウトリーチの話である。


医療法の1992年の改定で、医療を受ける者の居宅も医療の場所として認められるようになった。

また訪問看護の保険点数というものは、最初は老人に限定されていたが、1988年にあらゆる自宅療養者が対象になった。私が学生のときは、まだごく一部の機関しか訪問看護をしておらず、わざわざ見学させてもらいに行ったことがある。今はそこかしこに訪問看護ステーションが建っているのが目に入るので、ずいぶん広まったものだなと思う。



在宅医療や訪問看護というのとは別の括りで、重症精神科患者が地域で過ごせるよう24時間体制で訪問も含んだ包括的な支援をするACTといったものや、精神科患者が発症した際に24時間以内に飛んで行って話を聞きに言って結果的に直してしまうオープンダイアローグといったものもある。これらもアウトリーチ事業と言っていいだろう。

オープンダイアローグは最近もてはやされているが、私にはそれほど画期的なものとは思えない。我が国には「生活臨床」という徹底したアウトリーチ型の精神療法がある。生活臨床は、治療とは生活の場でこそなされるものだとして、診察室のカウチの上で治療をしようとする精神分析と真逆のアプローチをしている。



畳の上で死ぬことも叶えてくれそうなこれらのアウトリーチはまことによさげであるが、実際のところ在宅医療はあまり進んでいるように思われない。

というのは1948年に制定された医療法では、医療を診療所か病院でしか認めずにいた。かつて医療は往診が主流であったにも関わらず、それを「突発的な状況における例外」としたわけだ。1992年の改定までのブランクは大きい。「今さら在宅医療?」なのである。

医療機関にはかつての往診の記憶はない。大して金にもならないくせに、かなり面倒で特殊で安全でもない医療をしなければならないとなれば、やる気は削がれるだろう。

患者のほうも「病気になれば病院に」が当たり前になってしまった。死を迎えるのを待つという状況でもない限り、設備の整った施設のほうが安心できる。往診がそれほど熱望されているとは言えまい。在宅医療の導入は、医療のそういった流れをさかのぼらなければならないのだ。


もうひとつこの逆行を難しくしている要因は、医者像が変わったことではないか。医者は病院にいて、なんか偉そうでいけすかなくて、だけどその偉そうな感じにすがりもして・・という感じの医者像が象られているのが現在だと思うのである。これは、黒い鞄をぶら下げて自転車を走らせる地域の人となじみであった町のお医者さん像とはずいぶんとズレる。

医者の偉そうな感じは「なんか凄そう」ということでもある。でも本当に凄いかというと、文字通り「凄い」ことをやっていたブラックジャックのほうが訪問医療を手がけていた。それに対し今の町医者の仕事の大半は「じゃ、薬出しておきますんで」と言うことだ。患者はそう言われるためだけに、感染リスクまでを犯して病院の行列に並ばなくてはいかんのか?


ここで気づく。やはりこれは効率の問題なのだ。野菜や魚を売り声とともに長屋まで売り歩き行くよりは、あらゆる食材を備えたスーパーマーケットを用意するほうが無駄が少ない。医者が患者の家を一軒訪ねる間に、病院にいたなら数名、いや数十名は他の患者を診られてしまう。この損失は、医療者にも患者にも大きい。


じゃあ効率と自宅での手軽さの両方を叶えましょうとなると、オンライン診療がよいのではないかということになる。だがこれも我が国では広まっていない。国として強く推し進めるつもりはまったくないそうで、かの感染症の蔓延さえもその後押しにはならなかった。その期間だけの特別措置としてわずかばかりの規制緩和がなされただけであった。


もしかするとこういった医療制度の改革は、医療者にはうまくなしえないのかもしれない。本当は商業的な発想をする人のほうがずっとよいものをずっと早く導入するのかもしれない。さらに保険診療システムが医療制度のありかたを国の政策のみに大きく依存することにつながっているので、医療改革が進まないのでは? と思っている。

ああ、そういえば保険証の代わりにマイナンバーカードを使うオンライン請求とかいう制度ばかりは、時期尚早なほどにさっさと導入され、現場が大混乱している。使えないカードリーダーやシステムを開発する企業ばかりが利益を得るのだろうと思うと、不信感が募るばかりである。



#医療
#福祉
#訪問医療
#アウトリーチ

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