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学習理論備忘録(27) 『理由づけを信じちゃいけないよ』

(本稿を書くにあたり、前回を少し書き換えた。私にとっての備忘録だから遡って手直しをする必要はないのだが、それこそ、どうにもとまらなかった)

まず、不安症としてパニック症と強迫症のことが述べられているので、我らが原井先生の本を紹介しておく。


とても平易であるにも関わらず治療の本質が書かれていて、しかもすぐ実践できることが満載の奇跡の一冊である。にも関わらずこの本は現在絶版である。多くの患者さんに極めて有用だと思われるだけに、あまりにも惜しい。(原井先生の本は、強迫症のみについて書いたもの以外、すぐ絶版になる運命にあるようだ)

ということで、強迫ひとすじ34年の原井クリニックをよろしく。



では不安症の話を続ける。


・カフェイン摂取によりアドレナリンが放出されドキドキし、破局的認知を起こしてパニック発作になる(だがカフェインによるドキドキは発作の理由ではない)。

・男は、お金を洗浄する強迫行為がある(だがそうしても、細菌をうつしてしまうかもしれないという思いは消えない)。


どちらも時間経過とともに、恐怖が増していく。

パニック症も強迫症も病気の分類上「不安症」としてくくられているのは、このように同じ不安(*1)という感情が主たる症状である、ということからである。


「パニックになるかも!なりそう!」という不安、恐怖、心配のせいでパニック発作を繰り返す(パニック症)


「儀式をしないととんでもないことになってしまうかも!きっとなるに違いない!」という不安、恐怖、心配のせいで、強迫行為をしつづける(強迫症)


どちらも、 A+/AB- が成立していない。
さらに、いやな状況を避ける回避をしてしまうので、 A+/AB- はますます成立する機会を失い症状が悪化、不適応になる悪循環となる。
回避には、怖い状況から逃げ出す受動的回避と、前もって対策をし、怖い状況自体を予防してしまう積極的回避がある。そのどちらをどれだけ用いるかということも、パニック症と強迫症のさまざまな臨床像を作るのに影響する。


(1*)少し気になることがあるので言っておく。「不安」という言葉は精神科医の間では、「漠然とした、対象のはっきりしない恐れの感情」のことを言うことになっている。怖いものがはっきりしている場合、その感情は「恐怖」と言うのが正しい。「心配」に似た言葉である。
ところが「不安症」と診断名にもしっかり不安が入ってしまって、その「不安」というのが上に見るように見事に「恐怖」なのである。恐れるものがはっきりとあるのである。また「予期不安」という言葉も、見事なまでに不安ではなく、本当は「恐怖」であるものについて命名された専門用語である。
これはけしからん事態なのか?ドイツが主流であった精神医学が、アメリカ精神医学に汚染された結果なのか?ならば私としてはそこにあらがって「不安症などという病名はやめよう!恐怖症に変えよう!」とプラカードを持って路上を行進するべきなのか?

実は私は、なるべく恐怖を「不安」と記載せぬようにしている一方で(患者さんが「不安」と言った場合に、診療録には「心配」と書き換えたり、直接話法で書く場合は「とっても『不安』なんです」とカギカッコ付きにしている)、不安という言葉を対象のあるものに使うのもアリだと思っている。日和っているのではなくて、不安は対象のないものという定義自体がよろしくないのではないかなあ、と思っている派だ。
日常語で考えてほしい。「不合格になっていないか不安だ」とか普通に言うでしょ?「不合格になることが恐怖だ」とはあまり言わない。言ったとしても同じ意味ではなく、強さが違う。たぶん質的にもなんか違う。

実は、かつては精神科医も、恐れの対象がある感情に対し不安(Angst)という言葉を使っていたらしい。それがあるときから、対象の有無で不安と恐怖を分けることになった。かのシュナイダーも、その新しい語用を踏まえた上で、対象のある不安というものを認めている。シュナイダー先生がいいと言っているのだからいいのだ!
(エヴァンゲリオンを理解するのに役に立つかもしれないから、ぜひこの手のドイツ語は押さえておこう)


ところでちょっと薬の話を。

抗うつ薬といえば、今はセロトニンという化学物質を脳内で有効利用する(外から与えるのではなく、元々その人が持っているセロトニンを無駄なく使う)薬である選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)と呼ばれる比較的新しい薬や、その後出た薬の話ばかりになってしまっている。これらは強迫症の症状を抑える(ただし、ものすごく効く、という印象はないが)。

新しい薬があると、医者も患者さんにも勧めなくなる。だからだんだん処方もされなくなり、新しい研究もされなくなり、そもそも古い薬の話題がなくなり、忘れられる。

ここで古い薬である、三環系抗うつ薬の話をしたい。三環系抗うつ薬もパニック症に効果があるとされている。いっぽう、強迫症にはアナフラニール(クロミプラミン)という三環系抗うつ薬しか効かなかった。イミプラミンのような三環系抗うつ薬は、パニック症には効くが、強迫症には効かない。


同じ不安閾値を上げる薬を使っているのに、この差はなんだろうか?パニック症と強迫症を不安や恐怖の障害とくくってしまっては説明できない。


実は、前回述べてしまったが、強迫症はやはり、嫌悪が原因の疾患(*2)と考えられるのである。

(*2)原井先生によると、「嫌悪障害」という病気はあるそうだ。「音嫌悪」「嘔吐恐怖」などは、強迫症以外の嫌悪が原因の障害である。嫌悪についての専門書もある。となればやはり、強迫症は不安症のくくりに入れるのではなく、嫌悪障害のひとつとして考えたほうが診断分類はすっきりまとまるのではないだろうか?
にも関わらずDSMのような診断基準に正式に「嫌悪障害」が採用されていない理由は、嫌悪についてはやはり研究したい人がおらず、みんな嫌いだからということのようだ。
だが " 繊細さん " なる言葉が大流行りの昨今を鑑みると、この手の「大人の事情で正式な診断基準から漏れ落ちてしまった疾患」というものは必ず拾い上げる人が現れ、ブームになるのではないか、などと思っている。



強迫の起源はいくつかある。


実際に体が汚れたりそう疑うような、「生理的なことから嫌悪感が起きる」とき、つまり「生理的にムリ!」というとき、私たちは、「自分の体が汚染された」と認識する。そのとき洗い清めるというのはあたりまえのことだ。生き延びるために正しい。これは、不快な「生理的にムリ!」という感じを終わらせるための由緒正しい方法でもある。

言い換えると、洗浄反応は嫌悪感への条件制止として機能する。洗浄反応はオペラント行動であるが、それによって不快な刺激から解放されるのだ。



確認強迫をする人やリサイター(*3)については、強迫行為が恐怖にも嫌悪感にもさほど結びついてはいなさそうだ。これらについては「自分を責め、罰すること」(自己叱責)に関係があるのかもしれないという。

それはうつと関係しており、一部の抗うつ薬だけが強迫に効くのは、「自分は罪深いです、だから自分を罰しなければなりません」という自己叱責を改善することに結びついているからかもしれない( = 自己叱責の改善には弱い抗うつ薬は、強迫には効かない)。


(*3)文字を見ると読み上げてしまうという強迫と、相手の言葉を復唱してしまう強迫と、最初どちらのことか分からなかった。文脈的に確認の話をしているから後者?と思っていたが、原井先生によると、いや、文字を読み上げる方であろう、ということであった。復唱するならリピーターとかになるだろうから。
ちなみに訳語はリサイターとしか言いようがないようだ。
ついでに、シンポジウムは英語だが、シンポジストは和製英語で、スピーカーというのが正しい、という話になった。



さて、強迫症の中でも、汚れの感覚が残存するタイプの治療の話が保留になっていた。

「私は汚れている」という感覚が長続きする。そのために手を洗いつづける洗浄強迫となる。

他の強迫(掃除をする、ごしごしと顔をこする、等)の話でもよいが、実は強迫症の半数以上が洗浄強迫を持っている。だから、「洗う」という強迫行為の例で話を続けよう。



こういう汚れの感覚が持続するタイプの強迫症患者は、「後づけのズレた理由づけ」という病理を持っているかもしれない。これについてはすでに、ねずみ男の例で説明した。こういう場合は、その認知的な理由づけを止められるような治療がよい

比喩としては、そうだな、関連痛のようなものだ。心臓が悪いとき、肩や背中が痛くなることがある。心臓が直接痛むことはなく、支配している感覚神経が起こすある種の錯覚のようなものがあるのだ。錯覚だから、肩や背自体はなんともない。

本当は心臓が悪い → 痛みだけ肩・背中に出る
                 ↑
          ここに湿布を貼る

 だが肩や背中の「関連痛」は続く。また湿布を貼る。これを繰り返す。すると年中湿布を貼ることになる。
治らなくても湿布が唯一の解決策だと思ってしまっているのだ。ついに湿布を貼ること自体が苦痛になる!


強迫の本質はこれに似ている。

このとき、「背中に湿布を貼れば痛みが取れる」という認知自体に介入できれば、湿布を貼るという行為はなくしうるだろう。強迫に話を戻せば、

「お金を洗えば汚染感が消える」

という認知に介入するのである。




このような臨床のテーマを扱うと、予期とか理由づけの話まで出てきてバリバリ認知の話として説明される。スキナーだけやっている人には気持ち悪いだろうが、説明としては判りやすい。他のところと比べると、今回は具体的で簡単なパートであった。

まとめると、パニック症と強迫症は、どちらも理由づけを間違うせいで不適応の状態が続くものである。

また、条件制止は両者に大きな意味を持っている、という話であった。



Ver 1.0 2021/3/12

Ver 2.0 2021/3/19 分からなかったリサイターのことを補い、それも含めて注釈に通し番号をつけた。また、自作の引用は、前のnoteにまとめた。

Ver 2.0 2021/3/25 翻訳本と内容がずれるねずみ男の話は少し削った。


学習理論備忘録(26)はこちら。

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