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【長編小説】 初夏の追想 16

 ――やがて、季節は本格的な夏の到来を迎えた。
 毎日蒸せ返るような暑さが続いた。平地と違って、自動車の排気ガスやエアコンの室外機による弊害としか思えないあの気違いじみた暑さに比べれば遙かにましだったが、やはりこの山中の森にも、それなりの暑気というものはあった。木陰にいれば涼しかったが、それ以外の場所では草いきれによって濃縮された空気が匂い立ち、標高の高い土地に特有の射るような強い陽射しが照りつけた。そのため、ちょっと戸外に出ているだけでも汗が噴き出し、肌がジリジリと焼かれるのを感じるのだった。

 私は相変わらず守弥の絵のモデルを続けていた。いまではその枚数は五、六枚のキャンバスにも及んでいた。守弥は熱心にデッサンを重ね、試し描きのスケッチやクロッキー画などを数えると、かなりの枚数になっていたはずだ。
 犬塚夫人はといえば、その社交家ぶりをますます発揮して、毎日のように篠田らの客を招いては客間でもてなしていた。夏休みのシーズンに入ったということもあって、徐々にこの土地に別荘を持つ人々が訪れるようになり、彼女はそのほとんどの人と親交があった。そして彼らは入れ替わり立ち替わり、この風雅な女主人のところへ、愉快な話題を携えて訪ねて来るのだった。
 守弥と柿本は、居間での喧噪を気に留める様子もなく、彼らによって占拠され、とっくにアトリエと化した二階の広間でそれぞれの制作に励んでいた。
 
 ――平和な日々が続いていた。まるで我々は桃源郷にいて、もしかしたら、このままずっと、何世代にも渡って歳も取らなければ時代の流れを知ることもないあの幻想の世界の住人たちのように、我を忘れて永遠の生を享受することになるのではあるまいかと錯覚するほどであった。
 
 しかしもちろんそんなことがあるわけはなく、やがて私たちは、厳しい現実に突き当たることになった。それはある日突然やって来たばかりではなく、それまでの我々の平穏な生活を根底から覆してしまうほどの衝撃を、この別荘にいる者全員に与えることになった。
 いや、正確に言えば、全員というのは当たらない。なぜなら、そのうちの何人かにとっては、その事情はあらかじめ知識として蓄えられていたものであったし、また別の見方から言えば、何人かの人間にとっては、これがいずれ当然起こるべき事柄であるということは、以前から予測できていたのだから。
 しかし、現実にそれが起こった時点では、確かに我々全員が虚を突かれ、衝撃を受けた。それは、まったく不意の出来事であったし、また、そのとき私たちは、言うなれば皆が皆、連日のやや享楽的な生活に慣れ過ぎていたせいで、精神的にもっとも無防備な状態にあったのだ。



 ――時の移ろいとは恐ろしいものだ。
 彼らと過ごしたあの夏の日々を思い出していくにつれ、私は確実に過去の世界へと引き戻されていく。その間私の精神は、間違いなく彼らと共有していたあの日々をさまよい、あのときとまったく同じ体験を繰り返している……。
 ところがどうだろう。
 毎夜、この仕事を終え、ペンを置いて床に就こうとすると、私は今度は一気に現実の世界へと引き戻される。彼らの幻影はどこか暗い穴の中へ吸い込まれるように消えてゆき、あとには私自身の老いさらばえた両手だけが残っている……。
 年月は、容赦なく私の上に降りかかって来ていた。それはもちろん万人に共通の事象であるし、誰にもその流れを止めたり逆行させたりすることはできないということは重々わかっているつもりだ。彼らにしても、いまでもあのときのままでいるということは有り得ない。
 ……けれど、私はあのときの思い出を捨て去ることができずにいる。あのころの出来事を、私は決して忘れられず、それはあまりにも鮮明に心に焼き付いているのだ。それは、私がそのことに異常に執着し過ぎているというだけのことなのだろうか。それとも、誰しもが心のどこかにひとつくらい、このような思い出を抱えて生きているものなのだろうか……。
 私は、長年少しずつ買い溜めてきた絵画の複製やリトグラフなどを所有していた。そして、それらをテーマ別に分け、各部屋ごとに壁に掛けた。その作業をしているあいだにも、ここで過ごした日々の出来事が蘇って、私はしばしば手を止め、思い出にふけらなければならなかった。すると、ここに舞い戻って来たことは、果たして本当に正しかったのだろうかという疑問が頭をもたげてきた。ここをつい棲家すみかと定め、一切を決心してやって来たつもりだった。しかし、実際にここで暮らしてみると、時が経つにつれて、いよいよ彼らの思い出は私の中に侵入し、記憶のひだに沈殿しながら、かつてここで起きたことどもをあまりにも鮮明に見せつけてくれるので、ときに私は身を切られるような痛みを覚え、立ち止まってしまうのだった。私の精神は、時折その鬱積に耐えられず、思わず筆を止めてしまう日すらある。そして、呆けたようにこの広い屋敷の中を徘徊しながら、自分が完全に独りぼっちであることを新たに見出すのだ。そして、この孤独な闇の中に自分を置き去りにしたのは、ほかならぬ彼らなのだと恨みさえする。それが錯覚に過ぎないのは、自分でもよくわかっているのだが、どうしてだか私は、彼らが意図的に私を置いてきぼりにし、私がどうあがこうとも到底追いつけないスピードで、足音も高らかに走り去ってしまったように感じてしまうのだ。 
 ――これ以上虚しいことがあるだろうか。ここで暮らせば暮らすほど、自分をかえりみて、哀しく、惨めになっていくのは目に見えている。正直私は、ここでこの独白を始めてしまったことが、本当に良いことだったのか、疑い始めている。ここに、彼らと過ごした日々を再現して見せたところで、いったい誰に何の報いがあるというのか。いまは散り散りになってしまった彼らのことについて物語って、自分の人生に救いを得ることができるとでも信じていたのだろうか……。そう思うと、とてつもなく虚しいのだ。
 ――けれど、こうも考える。私の人生に何か救いがあるとすれば、それはただ、彼らがここに現実に存在していたということへの憧憬と、そのなかにひとひらあったはずの鮮烈なきらめきを記録することぐらいのものであろう。そして、それすらも与えられないであの世へ行くのは嫌だと、私の中の何かが叫んだのだ。だから私はいまここでこの物語を中断するわけにはいかない。それこそ、精魂尽き果てるまで書き続けるくらいの覚悟をもってして、この独白を完結させなければならないのだ。

 私はここを離れられない。

 朝、目覚めてすぐ仕事に取りかかる。
 ここでは誰も私の生活に干渉する者はいない。私はよろよろとベッドから出て、独りで朝食を摂り、顔を洗って、書斎に籠る。
 そして、この手記を書き続ける。
 
 いまは私に残された、最後の仕事と言っていいだろう、この物語を終わらせるまでは、私は何としても続けなければならない。
 

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