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【ホラー短編小説】 淵 1


 その年の夏は、暑かった。
 梅雨に入ってからも雨が少なく、「今年は空梅雨だ」などと言っている先から、山間やまあいの地域では長時間に渡る集中豪雨に見舞われた。ただ、海沿いにあるこの小さな集落では、大雨が降っても全部海に流れてしまうので、家屋に浸水することもなく、大きな災害となることはなかった。豪雨は山に受け止められ、近代になってから整備された二本の人口水路を流れ落ちて小さな湾に逃げていくのだった。
 湾は地図上で見ると、太平洋に面して複雑に入り組んだリアス式海岸の特に入り組んだ部分の一部で、そのなかの湾の、さらに奥に入り込んでいる小さな湾であった。小さいだけに、湾一帯がすべて船着き場になっていて、端から端まで、常に五十隻ほどの漁船が停泊していた。
 湾を背にして右側、つまり南側には急な傾斜を持つ小さな山があり、その上には神社がまつられていた。山にへばりつくように、急勾配を埋め尽くすようにして無数の墓があり、これが他所よそから初めてこの浦に入って来る人を驚かせた。墓地を下りたところには、集落じゅうのほとんどの家が檀家となっている大きなお寺があった。

 はじめは、この寺と神社のある山から吹き下ろしてくる風が好きだった。特に、夏の風は、木々の陽気をたっぷりと含んで、葉っぱの甘い匂いをさえ運んでくるから、樹幹にびっしりと取りついてぎゃあぎゃあわめいているせみたちの声と相まって、それがただでさえワクワクしている少年の夏の気分を余計に盛り上げるのだった。
 ところがその夏は、どういう訳か、風が吹かなかった。空梅雨の影響なのか(気象庁は一度も〝空梅雨〟という言葉を報じなかったが)、七月に入ってから季節が綺麗に切り替わったように暑くなり、雨らしい雨は一度も降らず、この集落は毎日少しずつじりじりと焼かれているような気がされた。朝の早い時間からもうすでに蒸し暑く、むっとするようなぬるい微風がその淀んだように重い質量の粒子で人々を覆った。すると見る間に肌の上にはじっとりと汗の玉が浮いてきて、住人たちは、朝っぱらからたまらない不快感と脱力感にさいなまれるのだった。そしてお昼が過ぎ、陽が傾いて、西陽が徐々に湾を支配するようになると、今度は朝のものとは比にならない危険なほどの気温の上昇が始まる。西に向けて開いているこの湾では、太陽が高く上っている日中よりも、夕方四時から五時ぐらいにかけてが一番暑くなるのだ。その時間帯になると、各家々では窓や扉を閉ざし、慌ててクーラーのスイッチを入れた。
 そんなだったから、八月に入って更に酷になったうだるような熱気と湿気のなかで(気温は三十四度、湿度は九十五%を越えていた)、少年が束の間の涼を求めて山のなかへ逃亡しようと考えたのも、ごくごく自然な成りゆきではあったに違いない。けれど、のちに自分が出くわすものの恐ろしさを、少年はそのとき夢にも思わなかったことだろう。
 
 
 一の母親は、一が二歳のとき、天ぷら油を全身にかぶって死んだ。なぜそんなことが起こったのか誰にも分からなかったのだが、とにかくも不幸な事故だった。せめてもの幸いは、大火傷をして一時間も経たぬうちに絶命したことだった。
「あんまりなごう苦しまんでって、良かったんよ」
「あの子は行いが良かったきの」
「いっこもおろゆう、、、、ねえ子じゃった」
 大人たちは口々に言った。
 
 
 
 ――その道に入ったのは、まったくの偶然だった。
 
 直截ちょくせつ的な子どもの感覚のままに、一は山道をぐんぐん進んでいった。モワッとした草いきれに息がつまりそうな感じを覚えながら、山の匂い、裸足の足に当たるゴム草履の感触、一歩ごとに足の下で細かい砂利と土が同時に立てる音、薫り高い夏の木の匂い、そんなものをいっしょくたに感じながら歩いた。
 ミー坊たちがいつもカブトムシを獲りに行く、くぬぎの林があるはずだった。一はまだ一度も行ったことがなかったが、子どもたちの話から、だいたいの見当はつけていた。
 天神川という古い川が、山の真ん中を流れていた。いまは小さなせせらぎのようになっているその川に沿って降りて行くと、その先にくぬぎの林は見えてくるはずだった。
 そのとき、一はなぜか、自分の左方向に伸びている一本の細い道が気になった。こんな道があったっけ? ……子どものひとり遊びのあいだじゅう、常にぽつぽつと話している頭のなかの声が言った。少し迷ったけれど、一度関心を向けた少年の好奇心を止められるものは何もない。一は衝動的に、その道を先へ進んだ。
 
 細い道に入ると、木の枝が縦横に伸びて、薄暗いトンネルのようになっていった。そこはまるで異空間のように、いままでの暑さが嘘だったかのように、冷んやりして涼しいのだった。嬉しくなった一は大きくひと息ついて、まるでその道を歩くことをじっくりと楽しむように、歩みを緩めた。ふと見ると、視線の先に一匹の大きな揚羽蝶あげはちょうがひらひらと舞っていた。黒い堂々とした羽根を翻しながら、ときどきこちらを振り向くかのように引き返しては、また前方へ飛んで行く。
 虫網を持って来ればよかったな、と、一は後悔した。あの揚羽蝶を捕まえれば、昆虫採集の標本にして、いますでに作っている三色のカミキリ虫の標本と合わせれば、立派な見栄えのする夏休みの自由研究が提出できただろうに。目的はくぬぎの木に張りついているカブトムシを獲ることだったので、手で十分とたかをくくって、虫かごだけをたずさえ、虫網は玄関の横に立てかけたまま置いて来たのだった。
 そのあいだも揚羽蝶は、その美しい羽根をひらめかせながら、まるで先導をするように、道の奥へ奥へと進んでいった。その黒い鱗粉りんぷんを浴びせかけられて魔法にかかったかのように、一は蝶のあとを追った。
 
 ――どれくらい歩いただろうか。少し疲れてもきていた。……おそらく三十分ぐらいは歩き続けていたのではなかろうか。いつの間にか道は急な登り坂になっていて、一の小さな足は、ともすればゴム草履が脱げそうなくらいの傾斜の負荷を受けるようになっていた。
 くぬぎ林から離れてしまったな……。
 頭のなかの声が言っていた。でもいいや。この道はこんなに涼しいんだもの。今日は暑すぎて、涼しくなりたくて山に来たんだもの。カブトムシは、明日また獲りに来ればいいや。今日はこの道を、どこかに辿り着くまでずっとずっと歩いてやる。
 知らない道を進んでいくことが、どんどん面白くなってきて、一は脇目もふらずに歩き続けた。それから十分、二十分くらいが経っても、一の好奇心は少しも揺るがなかった。見たことのない景色が展開し、自分のいる場所がどこなのかまったくわからないという経験を、生まれて初めてしていたのだった。それは、九歳の男の子を興奮させた。怖いどころか、楽しくてたまらなかった。夢中になって、一は道を上り続けた。どこまでもどこまでも……。この道は俺をどこに連れて行ってくれるんだ? 流石さすがに段々疲れてきて、息も上がるようになってきた、そのときだった。
 
 急に視界が開けて、だだっ広い空間が一を迎えた。
 
 そこは、山の頂上なのか、とにかくもうそれ以上は上る道もなさそうな場所で、そこに一面平らな土地が開けているのだった。水の匂いがして、目の前に、大きな湖が広がっていた。
 何だここは……?

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