【長編小説】 異端児ヴィンス 11
表に出るともう夕暮れどきで、真冬の寒波が街を覆っていた。
カナダ東部の冬は厳しい。モントリオールは、セント・ローレンス川に浮かぶ島の上に建設された街であるので周囲を水に囲まれ、その湿気のせいで骨身に沁みるような独特の寒さがある。雪が降っていない日は、なおさらだった。
路上に降り立った私は、これまで生きてきた中で一番の孤独を感じていた。その孤独はこのしんしんとした寒さに増幅されて、一瞬目眩を覚えるほどだった。
ヴィンスは逞しい。私のような者は足下にも及ばぬほどに、と、私は思った。
家路に就く前に一度暖を取ろうと懸命に押したカフェの扉が、ようやく往来の寒風と私とを遮ってくれた。
冷た過ぎる風に当たっていたせいで、耳鳴りがしていた。周囲の音を問題無く聞くことができるほど聴力が回復するのを待って、私はカウンターに歩み寄り、一杯のストロング・カプチーノを注文した。
若いケベコワのスタッフが慇懃な動作でエスプレッソを注ぎ、その上に子供達が見る夢のように柔らかそうなミルクの泡を乗せてくれた。私は二ドル硬貨を二枚、カウンターに置かれた木製のカルトンの上に置き、優雅な手つきでお釣りを渡してくれる男の子の手から幾セントかを受け取った。
重苦しい気分は相変わらず続いていたが、暖かい店内を見回しながら歩いて、すこぶる座り心地のよさそうなソファを見つけて腰を下ろす頃には、だいぶ気持ちは和らいでいた。
カプチーノのひと口目を口に含むと、急にテオのことが思い出された。今頃彼はどこで何をしているのだろう?
あの仲違いの日から、テオはアパートに帰って来なくなった。ウートゥルモンの実家に戻っているのには違いなかったが、私は連絡を取ろうともしなかった。三日ほどしてから、私もアパートを出た。大家さんに断わりを言って、残りの家賃を日割りで払い、少ない持ち物を持って、一人住まい用の小さなアパートに移った。新しい住所は、彼のところから地下鉄を乗り継いで六駅、わざと遠く離れた場所を選んだ。
彼と離れてからひと月……。もう新しいガールフレンドぐらいできた頃かもしれない。
カップを両手で抱えて少しずつすすりながら、カフェの中を見渡した。この時間帯にはあまり客は入っていなかったが、男女混合の四、五人のグループが、さざめくように、穏やかな会話を交わしていた。私は特に何かを探そうというわけでもなく、ただ自分が砂のように乾いた目をしていることに気づかれないように意識しながら、実際には見てもいない目の前の光景を見ているふりをしていた。
するとやがて、現実にはあるはずのない光景が、突然脳裏に展開し始めた。それは、初めてテオに出会ってから何回目かのデートの時の光景。彼に恋心を覚え始めていた私は、その日朝から嬉しくてワクワクしていた。私達はやはりこのようなカフェで待ち合わせをしていたのだった。彼はいつも遅刻して、三十分ぐらい待たされることは当たり前だった。その日も私が一杯目のコーヒーを飲み終わる頃になって、彼は現れた。
彼は、一朝一夕には身につかない優雅な物腰の持ち主で、それは彼の育ちの良さを表していた。長い手足、ほっそりと削げ落ちた頬。それに、彼の内部で潜在的に進行しているように感ぜられる心労が、こっそり忍び出てきたかのような、無精髭……。
髭を伸ばしているときのテオは、やけに不潔に見える、と、いつも思っていたものだ。それは私の気持ちが彼から引き離される幾つかのファクターのひとつとして働いていたが、その一方で、彼自身を個性的な独立した存在として尊重するためのいい手助けでもあった。そうでもないと、私は彼を私の個人的な迷宮世界に引きずり込んで、彼の人格を完全無視して彼を煩わせてしまいかねなかったから……。
そういう意味で、私はテオの無精髭を歓迎していた。
そして今、私は無性に彼に会いたかった。ヴィンスに会って、彼からいつもの魂の洗礼を受けることは叶わなかったけれど、独房の中のあの彼の姿を見たことは、私にある種の逆説的な勇気を与えていた。ヴィンスは社会的に、決定的な弱者であると共に、私にとってはヒーローとも呼べるような強者であったのだ。
……自分で引き起こしたことの尻ぬぐいは、やっぱぁ自分でしなきゃなんねえ、ってことさな……
ヴィンスの言葉が耳の奥で響いていた。
私はやおらバッグを開き、自分のスマートフォンを取り出した。そして、未だ消すことのできないでいるテオの名前を表示させ、通話をタップした。
スマホを持つ指は震えていたし、心臓はドキドキと音を立てて脳にまで響いていたが、ヴィンスの応援によって、私は勢いのついた自分がすでに滑り出してしまった流れの上を、むしろ楽しむように呼び出し音を聞き続けた。
テオは電話に出なかった。代わりに、聞き慣れた声で留守番電話の応答メッセージが応えた。メッセージを残してくれたらこちらからかけ直す、という旨の言葉が終わると、ピーッという信号音と共に、影のような沈黙が訪れた。
私は今にも通話停止ボタンを押してしまいそうに怖じ気づいていたが、すんでのところで、何とか押し留まった。そして子供の頃、友だちと暇つぶしに不特定の番号を回してイタズラ電話をかけていた時のスリルを思い出して、これを楽しいことだと自分に暗示をかけた。その時もヴィンスは私と一緒にいてくれた。
私は快活な声で、
「ハイ、テオ。私よ。話したいの。もし、よかったら電話してくれる? じゃあね、……待ってる」
と、それだけようやく言い切ると、電話を切った。
それから私は残りのカプチーノ・エスプレッソを飲み干して、意を決して立ち上がると、カフェを出ていった。
――それからの日々、私は男性達から遠巻きに眺められることを楽しんで過ごした。ウェイトレスとして働く時には少し濃いメイクをしたし(それによってチップの額が上がったのには驚いた)、以前より少しだけセクシーな格好をすることを意識した。
何かが自分の中で吹っ切れているようだった。テオと別れて以来、もう誰も私の化粧や服装に意見を挟む人はいなくなった。と、いうことはだ、誰の言葉や意向にも左右されず、自分の好きなように装っていいということなのだ。
こんな単純なことが、これまでできていなかったのだと気づいた時、私は軽いショックを受けた。そしてテオが自分の上にどれほどの影響力を持っていたかということに気づいた。
私は男達の視線を有り有りと感じながら、段々と自分の中に幸福感が宿ってくるのを感じていた。例え特定の男性と、友人として親しくなっても、心を通わせようとすることは敢えてせず、彼らが大いなる期待と欲望を秘めた目で自分を見つめていることを意識する時間をできるだけ長引かせた。
私は自由だった。
月曜の夜は、フランス語の学校が引けてからレイモンドと食事に行った。彼が私に心を開き、自分がゲイだとカミングアウトしてからは、私達の関係は、瞬く間に〝食べ友〟のそれになった。そしてその関係になってからは、魔法のように、レイは話のよくわかる〝面白い〟奴に変貌した。私達は暇さえあれば、モントリオールに網羅されている世界じゅうの料理を提供するレストランを開発し、他愛ないガールズ・トークを繰り広げ、ストレスを発散した。
火曜日にはレストランで一緒に働くトバイアスと、仕事終わりにデュー・デュ・シエルに繰り出した。この店でもうヴィンスと相見えることはできないけれど、常連客はいつもの変わらぬ面々で、言わばまるで実家に帰ったかのような暖かさを感じるのだった。
水曜日は午前中はレストランで働き、夜はフランス語の学校に行った。学校が終わると真っ直ぐ家に帰り、ひとりで食事をした。週の真ん中のこの日限定でやると決めたアロママッサージと温かいハーブティーは、深いリラクゼーションをもたらしてくれる最高の友となった。
木曜日、レストランで午後のシフトをこなしたあと、再びデュー・デュ・シエルに行き、サンドラやトバイアス、マルテンにパトリックとその他の友人達と愉快な時を過ごした。ただお酒を飲んで好き勝手なことを喋るというだけのことが、こんなにも気持ちの癒やしになるということを、その時になって私は再発見した。思えばヴィンスはその最たるもの、マスターであると言ってもよかった。彼もこのパブで、日々背負い込んでいるものの荷下ろしをしていたのだろうに、と思うと悲しい気持ちになった。
けれど、友人達が言うように、彼がまたどこか他の場所を見つけて毎晩のように飲み耽っているのは間違いなかった。ヴィンスから酒を引き剥がすことは絶対にできない、それは夜空に星が浮かぶように、投げ上げたボールが真っ直ぐに落ちてくるのと同じように、この世に定められた摂理なのだと私たちは納得ずくで信じていたから。
日が経つにつれ、人々は次第にヴィンスについて話すことをしなくなり、話題は街の情報や故郷のこと、仕事のことや家族のこと、恋愛のことなどの、ごくありきたりなものに移っていった。
金曜日、私は新しく知り合った上松稀一という日本人の男性とデートするようになった。キイチはとても優しくて紳士的で、歳が十も上というだけあって、懐の深さのようなものを持ち合わせていた。それはまだ若いテオとはまるで違うものだった。
キイチにときめきのようなものを、感じないわけでもなかったが、今の私の状態は依然として彼に走る衝動を妨げる方向に向いていた。しかし彼の好意と欲望を交互に秘めた視線に晒されるとき、それを真っ向から意識することに私が刺激的な満足を覚えていたことは事実だった。