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【長編小説】 抑留者 7

 九月に入ったある日の午後、予期せぬ来客があった。
 尚文は部屋にこもり、相変わらずインターネットでシベリア抑留者たちの情報を集めたりブログの更新をしたりしていたが、玄関の引き戸が開いて「ごめんください」という声がし、次いで居間から時絵が出ていって応対している声に、ふと集中力をそらされた。
 と、いうのも、玄関で時絵にものを言っている声が、聞き覚えのあるものだったからだった。どうも俺が知っている人らしいな、と、知り合いの顔を記憶に巡らしていると、
「尚文くん」
 母屋と離れを繋ぐ廊下を渡ってきた時絵が、尚文の部屋の前で声をかけた。
「何か、お友だちの方が見えとるよ」
 やっぱり、と思って腰を上げると、ドアを開けて時絵に軽く礼を言い、渡り廊下を通って玄関に向かった。
 母屋の広い玄関の三和土たたきに、忘れかけていた懐かしい姿が立っていた。東京で大学の同級生だった、三ツ谷孝治だった。性格は正反対だったが、なぜか互いに気があって、いつも一緒に行動していた親友だった。
「わっ、どうしたん?」
 思わず地元言葉で第一声を上げた尚文に、三ツ谷は照れ臭そうに笑うと、
「仕事でこっちに来る用事があったもんだから、ついでにちょっと足を伸ばしてみたんだ」
 と言った。
 ワクチンは打ってあるし、出発前と到着後の抗体検査でもちゃんと陰性が出ているから心配ない、と三ツ谷は念を押すように言った。東京で猛威を振るっているウイルスについて、尚文の家人が警戒しないよう気を配っているのだった。
「そうなんだ。何、今日は泊まっていけるんだろう?」
 つられて東京言葉になった尚文が振り向くと、あとから廊下を戻ってきたエプロンがけ姿の時絵が立っていた。三ツ谷の姿を見て少しのあいだ呆然としていたが、気を取り直すと恥ずかしそうにエプロンを外しながら愛想笑いを浮かべた。
「義姉さん、悪いけど今夜泊まってもらってもいいかな? 俺の大学時代からの友だちなんだ」
「も、もちろん。ゆっくりしていってもらったらいいわ」
 別人のような尚文の言葉遣いに明らかに戸惑いながら、時絵は即答で返事をした。兄の許可を得なくてもいいのかという気もしたが、そういった権限は割と時絵のほうにあるらしく、時絵はその瞬間、鉄雄の存在を心に留めた様子さえなかった。
「メシは心配せんでいいけえな、出るけえ」
 時絵に負担をかけまいと、尚文は夕食を外で摂ることを三ツ谷に提案した。海辺の新鮮な魚料理を店で味わえるとあって、三ツ谷は喜んで賛成した。
「本当にお構いなく。お邪魔いたします」
 東京の紳士を気取った三ツ谷は、時絵の前で丁寧過ぎるお辞儀をして礼を尽くしたつもりらしかった。そんなとき三ツ谷はいつも、限りなく爽やかで、女性受けする好男子に映る。
「風呂だけ、いいかな……」
 三ツ谷が荷物を携えて渡り廊下を歩いていくあとからついていきながら、尚文は時絵に小声で囁いた。時絵は都会の匂いをぷんぷんさせている三ツ谷がまぶしいのか、まだいささか呆然としたていたたずみながら、もちろんもちろん、というように何度もうなづいた。

 舞浜食堂のテーブル席に二人が陣取ったのは、午後五時を少し回ったころだった。ここは地元の人間の行きつけの食堂で、夜は居酒屋になって旨い酒と魚を出す。まだ夜の部が開店したばかりでほかに客はおらず、女将さんが店の奥に行って食材を準備したり、酒類の在庫の点検に回ったりと忙しそうにしていた。
 とりあえず冷たい生ビール二杯、と尚文が注文し、突き出しのトコブシの酢の物と砂ずりの和え物をつつきながら乾杯した。
 九月とはいえまだうだるような暑さの夕刻、喉を駆け下りるビールの冷たさは、旧友たちの再会の喜びをいや増した。うへーっ、たまんねえなあと三ツ谷は叫び声を上げ、尚文は満足そうに大きな微笑みを浮かべた。ブリのカマを炭火で焼きながら、亭主がちらっとこちらを見るのが目に入った。
 ウマヅラハゲとカンパチの刺身を食べ、途中からビールを焼酎の水割りに切り替えて、舞浜食堂名物の魚貝の天ぷら盛り合わせを食べ終わろうとするころ、不意に独楽子の話題が出た。
 言い出したのは三ツ谷だった。
「ほら、覚えてるか? お前がいい仲だった、独楽子って女」
 酒が全身に回って聞こし召した三ツ谷が、目を輝かせて言った。
「お前に付いて、この土地に来て何年か過ごしたんだろ」
「二年だ」
 尚文はぶっきらぼうに答えた。覚えてるも何も、独楽子は尚文にとってたったひとりの女だ。会うたびいつも隣に違う女性を連れていたモテ男の三ツ谷とは感覚が違う。独楽子と出会った合コンの主催者だった三ツ谷は、その後二人が付き合うようになって尚文の故郷に帰った経緯もすべて知っていた。独楽子が浦を去っていった五年前にはまだ交流があったため、三ツ谷は尚文と独楽子が別れたことも知っている。それでも独楽子とのことを大切に記憶に留めている尚文は、それを掘り返すようなことをされたくなかった。
 だが酔いが回って気分のいい旧友は、構わず続けた。
「あの女、ちょっとヤバかったよな。お前、一緒にいて感じたことなかった?」
 明らかに、茶化して笑いものにしようとする口調だった。大学時代からの、三ツ谷の悪い癖がまた出たと尚文は嫌な気分になった。
「まあ、確かに、普通の女ではなかったよな」
 適当に、あらがわず相づちを打つ。この話題は早々に切り上げてしまいたかった。
「とぼけんなよ、お前だってうすうす感づいてたんだろ? 二年も一緒に暮らしてればさ」
 感づく? 何に? まったく心当たりのない自分に、鈍さを指摘されそうな気がして、尚文はちょっとうろたえた。
「……」
 その沈黙を、ある種の含みだと早合点して、三ツ谷は話を進めていった。
「そうだよなあ、わかるよ……。独楽子なら、やりかねないってことはな。……な、お前も知ってんだろ? あいつがその筋の人の女で、彼氏が東京でヤバいことになっちまって、そのとばっちりをくらうのを恐れて身を隠すために、お前とここに逃げてきてたってこと……」
 何だと?
 尚文は戦慄した。
「ほとぼりが覚めるまで、二年ちょっと。ちょうど彼氏が復帰したって時点で、独楽子も東京に凱旋と相成ったってわけだ」
 あいつ、平気で男を利用する女だからな。でも、見返りがあるから承知で付き合ってやってるってとこあるんだけどなーー。お互い様っていうかさ。
 まったく悪びれる様子もなく、おどけながらあからさまな事実を当人に突きつける。三ツ谷が告げた事実のなかで尚文を驚かせた要素は二点あった。一つはむろん、独楽子がヤクザ者の女であったということ。そんなこと、尚文と暮らしていたあいだはおくびにも出さなかった。実際尚文は独楽子が尚文のことを愛していて、いずれ一緒になるつもりで自分についてきたものとばかり思っていたのだった。
 そのことだけでも頭がクラクラしそうになったが、もうひとつの要素がやけに引っかかっていた。尚文は焼酎のグラスを美味そうに傾けている三ツ谷に向かって言った。
「お前いま、『皆』って言ったよな。それ、どういう意味だよ」
 顔を真っ赤に染め、目を閉じて酒の酔いに浸っていた三ツ谷は、おもむろに目を開いて言った。もう旧友を前にしての自重などはとっくに取り払われているらしかった。
「どういうってお前。そりゃ、まあ、お前だけじゃないもん。独楽子、結局そのヤクザ者の男とも上手くいかなくなって、適当に近場にいた俺のところに転がり込んできたんだよ。『あいつが追ってくるかもしれない』って、嘘なんだか本当なんだかわからないことを真剣な顔で言うもんだから、つい俺もね。でも独楽子ってそういう女だろ? 俺だけじゃないよ、俺のあとにも何人かのとこ転々として……。あいつ男の扱いに慣れてるっていうか、上手いじゃん? 体もさ……」
 グラスをドンッ! と叩きつけ、もう一度反対側の手で作った握り拳でテーブルを叩いて尚文が立ち上がると、三ツ谷はようやく我に返った。すまない、俺、酔っ払って言い過ぎたみたいだ。お前ももうわかって吹っ切れてるとばかり思ってたから。
 しくじったとき、すぐに明快な謝罪の言葉を口にするのも、三ツ谷の学生時代からの手の内だった。その性質を知り過ぎている、かつての親友だった男を、尚文はこの瞬間心底憎悪した。
「ごめん。本当にごめん。まあ座れよ。でもさ、もう過去の話じゃないか。俺もお前も、あの手の女に翻弄された。同じような酷い経験を分かち合うことってできないかな。お前はここで平和に暮らし、俺にもいまは俺なりの安定した暮らしがある。親友として、な、お互いに共通の傷を癒やし合おうや。この先の人生、前を向いて生きていくために」
 独楽子はいまどうなっているのか、と尚文は聞いた。何があの手の女だ。見返りとか言っておいて、酷い経験だと? 何を分かち合うってんだ。ぺらぺらと薄っぺらいことを喋りやがって。この男の頭んなかはどうなっているんだ。
 酒の酔いと怒りのせいで、目の前の景色が紫色のウロコで覆われたようになった。尚文は顔面蒼白になり、細かく震えながら握った拳をどこにやりようもなくもてあましていた。
 尚文の形相に、ようやく自分のしでかしたあやまちの大きさに気づいたのか、突然素面しらふになった三ツ谷は、同じく蒼白になりながら答えた。
「独楽子はいま、千葉か静岡か、その辺で暮らしてるらしいよ。また新しい男と一緒にいるって、風の噂に聞いた」
 そのとき、女将が温かいお茶を運んできて、追加の注文はないかと聞いた。尚文も三ツ谷も、もう会計にしてくれと言った。張り詰めた空気のなか、救われたと思った。
 
 夜明けごろ、雨が降り出して、気温が下がった。三ツ谷はタオルケットにくるまって幸せそうな顔をして眠っている。いびきでもかいたら蹴ってやろうかと思っていたのだが、眠るときにはどんなに酔っ払っていても貴公子のように行儀良く眠るのがこの男の持つ美徳のひとつだった。
 思えば三ツ谷は数多くの美徳を持っていた。昨晩露呈したような酒の席での軽薄さを除けば、そのほかはいっぱしの社会人として何ひとつ欠けることのない人物と言える。尚文と違って頭の切れる三ツ谷は、いつでも人に一目置かれ、女にモテた。顔といい身長といい学歴といい、収入にしても三ツ谷は女たちのもうける厳しい基準をすべてにおいて上回っていた。尚文は自分と三ツ谷とを比べ、雲泥の差であることをいまさらのように思い出した。
 尚文は寝床から出ると、いつものように母屋へ行って用を足し、洗面所で身支度を調えた。
 台所からはもう、朝餉あさげの匂いが立ち上っていた。来客があるとて、祖父の朝食の世話をさぼるわけにはいかない。もし三ツ谷が起きてきたら朝食を出してやってくれるよう、時絵に頼んでおくつもりだった。
 気のない声でおはようと言いながら、台所に入っていく。
「あ、おはよう。じいちゃんのご飯、もうできとるから」
 時絵はコンロに向かって味噌汁を注ぎながら言った。今日はなぜか豪勢に、北海道産の鮭がおかずに上がっていた。どうやら客人に気を遣ってのことらしい。
「お客さんは、こっちに来て食べるんやろ? まだもうちょっと起きてこんよな」
 頼むまでもなく、客人に朝食を出すつもりでいてくれる。時絵にとっては当然のことかもしれないが、忙しく手を動かしながらそう尋ねるその気配りと善意に、尚文は苛立いらだちを覚えた。あんな奴のために、そんなに気を遣わなくていい。そんな言葉が喉まで出かかったが、何とかこらえた。
 居間では鉄雄が朝食を終えたところだった。民放の朝の情報番組が、賑やかな音を立てて流れている。
「おう、今日は早えの」
 尚文が部屋に入ると、鉄雄は顔を上げて声をかけた。夕べ漁師連中と舞浜食堂でかなり遅くまで飲んでいたらしく、明らかにひどい二日酔いで顔はパンパンにむくんでいた。
「うん。昨日、同級生が来てな、泊まっちょるけ」
 何事でもないように、尚文は答えた。鉄雄たち漁師連中が舞浜食堂に繰り出したのは、尚文たちが店をあとにしてからのようで、あの三ツ谷との一触即発の状態を見られずに済んだことに内心ほっとした。旧友との再会の喜びは、いまや白茶けた藁半紙わらばんしのように、どうしようもなく味気ないものに変わってしまっていた。
「起きてくる前に、おじいに飯を持っていっちょこうと思って」
「ほうか」
 鉄雄もまた、心ここにあらずといった声で生返事をした。もう五分ほどもすれば、二日酔いの吐き気とひどい頭痛に悩まされながら出ていかなければならない今日の漁のことを考えていたのかもしれない。
 そこに、時絵が祖父の分の膳を持って入ってきた。
「ほんじゃ、今日もお願いします」
 長方形の皿の上では、上等な肉厚の鮭がほかほかと湯気を立てていた。美味そうな匂いが鼻腔に入り込んでくるが、ろくに眠れなかったのに加え最悪な気分の尚文には、その匂いが胃につかえた。
 尚文は、玄関の草履を引っかけ、早足で祖父の〝庵〟に向かった。
 いつものように湯を沸かし、お茶を入れてやって、祖父が食べ始めるのを見てから、尚文は〝庵〟をあとにした。昨日東京から友だちが来て泊まっているから、朝食は母屋で摂るということを言い残すと、祖父は「ほうか」と呆けたような声で答えた。その声は、先ほど母屋の居間で鉄雄が返した生返事とそっくりだった。
 やはり祖父と孫だな、血は争えんなとぼんやり考えながら、母屋へと戻った。玄関に入ると、顔を洗って居間のほうへ行こうとしている三ツ谷と出くわした。おう、と、二人は短い挨拶を交わした。
「お義姉さんが、居間に朝食運んでくれるって言うから」
 三ツ谷は悪びれた顔すらせず、二日酔いで気分が悪いはずなのにもかかわらず、その見た目だけははなはだ爽やかな顔をわずかにゆがめて尚文に笑いかけた。〝お義姉さん〟などと臆面おくめんもなく言うのがいかにも三ツ谷らしい。
「部屋で座って待ってろ」
 尚文は荒っぽく言い置くと、とりつくしまもない様子で台所に入っていった。すると、時絵が大きな盆に尚文と三ツ谷の分の朝食を載せて、運ぼうとしているところだった。
「ありがとう、いいわ。俺、持っていく」
 あからさまに不機嫌な声が出てしまい、時絵をいささか唖然とさせてしまった。だが、夕べ飲み過ぎたせいだろうと解釈したのか、時絵は気持ちよく承諾して、いたわるような声を出して言った。
「うん、じゃあお願い。すぐお茶を持っていくわ」
 居間に入ると、テレビの前の、先ほど鉄雄が座っていたところに三ツ谷は座っていた。一家の長が座る席に、無意識にとはいえ真っ先に座るとは、やはり図々しい奴だ、と思ったが、考えてみればこれがいつもの三ツ谷なのだ。恵まれた容姿と洗練された物腰を持ち、何とは言えない不思議な良運のようなものを引き寄せて、どこにいても自然と優位なポジションに収まってしまう。こういう、すべてを持ち合わせた人間というのはいるものだ。
 くだらない考えだ、と、尚文は頭を振っていま考えたことを打ち消した。こいつは見かけとは違う、人でなしのお調子者なんだ。朝メシを食ったらさっさと追い出してしまおう。バス停にまでぐらいなら送って行ってやってもいい。何ならタクシーを呼んでやってとっととおさらばしようか。最寄りの駅までは三十分以上はかかるが。タクシー代は、もちろん三ツ谷が自腹で払う。
 どろどろとした、真っ黒な思考が、三ツ谷を正面にして座ってからも尚文の頭を離れなかった。無言で食器を並べ、怒りを表に出さないよう極力気をつけて箸を渡した。
「ありがと。美味そうだな。いただきます……」
 三ツ谷も、やや遠慮がちに小声で言うと、かしこまって箸を使い始めた。尚文の様子に、さすがに恐縮したのだろう、時絵が来てお茶を出してくれたときも、小さな動きで会釈をしただけで、いつものように余計な軽口を叩くようなことはしなかった。
 沼のような、よどんだ時間が過ぎていった。二人が鮭やご飯を噛む咀嚼音そしゃくおんをテレビのバラエティー番組がかき消し、居間のなかの空気は極限まで重くなっていった。
 ふと、目を上げると、三ツ谷がこちらを見ていた。気まずそうではあるが、何とか自らの不手際を挽回したいという意志を込めたその目は、学生時代のままの光をたたえている。
「お前さ」
 お茶を手に取りながら三ツ谷は言う。
「また東京に出てくる気ない?」
 東京。いまだ魅力的な響きを帯びたその言葉に、尚文の心は少し動いた。
「実は、今回ここに寄ってみたのは、これを言いたかったからなんだ」
 三ツ谷がどの程度本気で言っているのか尚文にはわからなかった。夕べから続くこの気まずい雰囲気を払拭しようとして、適当なことを言い出しただけなのだろうと思った。
「本当。昨日ちゃんと言えなかったんだけどさ、俺、毎日仕事して、家に帰って。普通に楽しいんだけど、何か味気なくってさ。お前がいたころは良かったなって。この何年か、ずっとそう思ってたんだ」
 神妙な顔をして、三ツ谷は言った。尚文は顔を上げて、三ツ谷を見つめた。
「お前が地元帰ったのも、向かない会社で苦手な仕事してたからなんだよ。お前大学出てるし技術持ってるし、得意分野に絞って探せば絶対どっか就職口あるよ」
 実は、取引先の会社がいま工業技術者を探している。話をすれば、尚文を採用してくれるかもしれないと三ツ谷は言った。
 尚文は唖然としていた。三ツ谷が自分のことをそんな風に考えていてくれたなんて。意外だった。けれど昔の記憶を辿ると、確かに、三ツ谷がこれまでずっと忠実な友であり、自分に対して一度も嘘をついたことがなかったことを思い出した。
 そして、東京。自分の能力を生かせる仕事に巡り合えるかもしれない、可能性に満ちた街。その街と、再び縁を結ぶことは、思いがけず尚文の心に興奮をもたらした。すると、この目の前にいるお調子者の親友と自分とを隔てているギスギスした境界が、瞬時に柔らかいカーテンのようなものに変容していくような気がした。
「とりあえず、一回出てこいよ。最初は俺んちに泊まればいいからさ。独りもんのマンション住まいだから、何も気兼ねする必要はない。昔みたいに楽しくやろうや」
 こういう殺し文句をさらりと言ってのける。これもまた、三ツ谷にそなわる無尽蔵の美徳のひとつだった。人たらしってのは、こいつのような奴のことを言うんだな。そのとき尚文は実感した。
「わかったよ。考えてみる。久しぶりの東京も、いいかもな」
 言葉少なに返答する尚文の、だが口尻に、笑みがほころんだ。

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